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白山鳩居峯五宿巡拝行十ヶ月

 毎月二回行じさせていただいている、白山鳩居峯十宿のうち五宿目までの巡拝行。7月27日朝、白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺に着くと、前夜からの雨はほぼ止みましたが、山上は雲に隠れていました。作務衣に白足袋姿で出発、いつものように金剛童子堂、拝殿、宝篋印塔、大講堂、薬師堂と巡拝して入峯しました。藪の露でたちまち全身ズブ濡れなって一ノ宿参拝。本地・不動明王を拝み、新しいお水をお供えしました。
 霧の中、越美国境尾根へ。展望は全くありませんが、雨も風もなく穏やかな天候です。国境尾根に上り、ウグイスの題目を聞きつつ縦走。二ノ宿本地のお釈迦さまに、法華経如来寿量品偈をお唱えしました。泰澄大師が天平2年(730)に書写した「根本説一切有部毘奈耶雑事巻第二十一」(宮内庁書陵部蔵)に、お釈迦さまが弟子の迦多演那尊者(迦旃延尊者)に説かれた、有無や生滅の二辺に執われない中道の教えがあります。

「此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずるが故に彼れ生ず。」
「此れ無きが故に彼れ無し。此れ滅するが故に彼れ滅す。」

無明に始まり老死憂悲苦悩に至る十二の縁起、そして、無明の滅に始まり老死憂悲苦悩の滅に至る十二の縁起の教えを聞き、迦多演那尊者は開悟した、とあります。
 迦多演那尊者は元々、阿私多仙人の弟子で那剌陀(ナラダ)と称していました。師が亡くなり手厚く葬った後、バーラーナシーに止住していました。ちょうどその頃、タクシャシラ(現在のパキスタン・タキシラ)の醫羅鉢龍王が若者の姿に化け、覩史多天(兜率天)に書いてあった難解な詞頌の意味をバーラーナシーの人々に問うていました。那剌陀仙は龍王から七日の猶予を得、バーラーナシーの施鹿林(鹿野苑)に釈尊がおられることを知って教えを請うたのでした。那剌陀仙は龍王に、釈尊に教えられた通りに答え、さらに世尊が世に出られたことを伝えました。龍王は釈尊に相見する為、転輪聖王の姿に化けて施鹿林を訪れましたが、釈尊にたちまち正体を見抜かれ、本形を現わしたのでした。七頭の龍で、その大きさは頭はバーラーナシーから尾はタクシャシラに至り、一一の頭上に醫羅の大樹が生え、根元から膿血が流れ蝿蛆にたかられています。(バーラーナシーからタキシラまで約千五百キロ。平戸や長崎から奥州平泉までと同じくらいです。)龍王が釈尊に、私はいつになったらこの龍身を免れることができるのでしょうか、と尋ねると、釈尊は、未来に慈氏仏(弥勒仏)が世に出られて汝に授記をし、龍身から免れるであろう、と告げました。醫羅鉢龍王の十四の瞳から一時に涙が溢れ出すと、釈尊は、そんなに泣くのは止めなさい、涙で国が破亡してしまうよ、と告げました。龍王は、私の本心は、小さき命をも害うつもりはありません、国を損なうなどとんでもございません、と述べ、仏足を頂礼して姿を消したのでした。この醫羅鉢龍王は、釈尊の一つ前の仏・迦葉波仏が施鹿林に止住していた時に出家修行していた者で、醫羅樹の下で坐禅をしていました。経行(歩く瞑想)をする為に坐を立つ時、いつも樹の葉が額に当たるのを忍受していましたが、ある時、禅定から立って経行をしようとした際に葉が額を強打し、痛みに堪えかねて怒った彼は、樹葉を両手で折って投げ捨て、迦葉波仏を謗ったのでした。命終の後、彼は醫羅鉢龍王の姿に生まれ変わりました。釈尊は弟子たちに、
「黒業には黒報あり、白業には白報あり、雑業には雑報あり。是の故に汝等、応に黒雑を捨てて純白の業を修せよ。」
と説いておられます。瞋り(いかり)の心と仏・法・僧の三宝を謗ることは、共に菩薩の守るべき十重禁戒の中に説かれる重罪です。私も、醫羅鉢龍王のようなことはしかねない人間です。
「此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずるが故に彼れ生ず。」
「此れ無きが故に彼れ無し。此れ滅するが故に彼れ滅す。」
お釈迦さまの中道の教えを、絶えず心してゆかねばなりません。
 三ノ宿へと藪中を登ってゆき、サワアジサイ咲く谷を遡上。雪融け後、半月前までは水が少なめでしたが、今日は水が豊富です。霧に包まれ暑くはなく、水は冷たいくらいでした。阿弥陀如来が本地の三ノ宿(三角点)に登り、加賀・笥笠神宮寺で平安時代後期に念仏三昧を発願し行じられた西因上人(白山上人)の願文と念仏をお唱えしました。トンボが飛んでいました。霧で西山も毘沙門岳も見えず。ウグイスの法華経の声が谺していました。先日、西因上人の故郷である肥前国松浦郡を訪れましたが、松浦郡の西部・平戸の安満岳は、養老2年(718)泰澄大師開山と伝わる山でした。白山から九百キロ以上離れた平戸は、間違いなく、泰澄大師伝承の西端でありましょう。「安満嶽縁起」には、「請観音経」にある、釈尊がヴェーサーリーで西方極楽浄土の無量寿仏(阿弥陀仏)と観世音菩薩・大勢至菩薩を請ずると、即座にヴェーサーリーに到ったことを挙げ、「加賀肥前の間、遼遠と云うことなかれ」と書いてあります。「請観音経」には、
「此を去ること遠からずして、正に西方を主(つかさ)どる仏世尊有り、無量寿と名づく。」
とあります。西方極楽浄土が「遠からず」ならば、肥前どころか醫羅鉢龍王の在所・タキシラも遠くはありません。泰澄大師は養老元年(717)、白山天嶺にて九頭龍王と十一面観音菩薩を感得されましたが、翌年、平戸の安満岳でも「白山天嶺出現の瑞相と全く同じ」体験をされたとのことです(「安満嶽縁起」)。


(安満岳頂より西方・五島列島を望む。)
 三ノ宿から鞍部に下り、作業道を登って西山へ。西山頂部は、高さ二メートルを超す物干し竿の如き笹藪。無雪期は二メートルを超す笹藪、積雪期は二メートルを超す雪、これこそが鳩居峯の醍醐味です。藪を掻き分け、藪中の山頂にて宝篋印陀羅尼を誦しました。半月前は、此処から多和ノ宿への下りで霧の為に全く毘沙門岳が見えず、正しい尾根より越前側に下ってしまいました。今日も全く毘沙門岳は見えず、方位磁針を確かめつつ足の踏み場もない藪を降下。西山頂からアブが二匹、しつこくまとわりついてきました。藪の露で全身ドロドロ、ポケットに入れていた手帳はグショグショになり分解。アブはうっとおしいものの、「此れ有るが故に彼れ有り」。今日は正しい尾根より少し美濃側に下ってしまい、正しい尾根へトラバース気味に登ると、西山・毘沙門岳の鞍部に出ました。藪から開けた作業道に出ると、アブも去りました。多和ノ宿跡はサワアジサイに囲まれ、高さ二メートルくらいの案内板も草に覆われてきました。冬は、この案内板も雪の下です。本地・毘沙門天王に般若心経をお唱えしました。
 毘沙門谷を登って、毘沙門岳へ。昨年十月にこの行を始めて以来、西山と毘沙門岳の鞍部には、山腹を横切る作業道が増えました。他の山でも感じることですが、山腹を横切る林道や作業道は谷も横切ることになり、山の生き物や私のような野人にとっては、谷が分断されることになります。毘沙門谷は普段から水がほとんどない天然の通路。これ以上、分断してほしくないのが、獣たちと私の気持ちです。今日の毘沙門谷はいつもより水が多く、苔むした石の下にチョロチョロと流れていました。谷を登り、体を入れる隙間もない笹藪に突入。若い笹も、立派に育ってきました。若笹はしなやか、古笹は頑固。人間と同じです。藪から毘沙門岳頂に出、西方を向いて宝篋印陀羅尼を誦し、白山権現・泰澄大師・西因上人ご宝号と共に、迦旃延尊者と醫羅鉢龍王を念じ、白山有縁の一切衆生が生死の海を超え、涅槃の岸に到らんことを祈りました。
 しっとりとした霧の中、毘沙門岳登山道を降下。下るにつれ、ウグイスの声にヒグラシの声が混じります。旧桧峠のお地蔵さまに掌を合わせ、桧峠の泰澄大師像に参拝。お水を替え、般若心経を読誦し、白山仏法興隆・令法久住を祈りました。国坂ノ宿にて本地・十一面観音さまに観音経と随願即得陀羅尼を誦し、投地礼。美濃禅定道を前谷へと下ってゆくと雲の下に出、ようやく霧から抜けました。路面は乾いており、長良川沿いに出ると(いつも感じることですが)、空気が温かく感じられました。とはいえ、今日は全く蒸し暑さがありません。入峯してから十時間ちょっとで長瀧寺に戻り、参拝。金剛童子堂にて金剛童子ご真言と念仏をお唱えしました。金剛童子は、阿弥陀如来(または金剛手菩薩)の化身です。今日は熊よけの鈴をつけるのを忘れてしまいましたが、食わず座らず撮らず、無事に行じさせていただけたことを感謝しました。

南無白山妙理大権現


(長瀧寺参道、下山後撮影)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝