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尾張黒田~一宮~妙興寺巡礼

 半月前(2019.1.15)、東近江・市辺で大長谷王(おおはつせのみこ、後の雄略天皇)に殺された従兄弟・市辺忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の御陵にお参りしました。


その後、市辺忍歯王の二人の王子(後の顕宗天皇と仁賢天皇)にまつわる伝承が尾張にも残されていることを知り、1月29日、木曽川を越えて尾張・黒田へ。この辺りは、東近江の赤神山(太郎坊阿賀神社)の祭神・天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)の親族も多く祀られている地域です。
 午前中、学校の一角にある黒田城跡へ。


土佐藩初代藩主・山内一豊は、天文14年(1545)にこの城で生まれました。線路を挟んで東の法蓮寺には、一豊公の父と兄のお墓があります。


法蓮寺から北東へ歩を進め、11時に籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ)着。


「古事記」によれば、履中天皇の長男・市辺忍歯王が近江の蚊屋野で従兄弟の大長谷王(後の雄略天皇)に殺された後、市辺忍歯王の王子たちは逃げ隠れ、播磨の国の志自牟の家で馬飼い・牛飼いとして育ちました。やがて雄略天皇崩御の後、即位した御子・清寧天皇は皇后も御子もなく亡くなられます。その頃、播磨の国司が志自牟の処で宴を催し、二人の少年に舞を所望すると、どちらが先に舞うか兄弟が譲り合ったので、皆は笑いました。兄が先に舞った後、弟は舞う時にこう詠います。

物部の 我が夫子(せこ)の 取り佩(は)ける 大刀の手上(たがみ)に 丹(に)畫き著け その緒は 赤幡(あかはた)を載(かざ)り 立てし赤幡 見ればい隠る 山の三尾(みを)の 竹をかき苅り 末押し靡(なび)かすなす 八絃(やつを)の琴を調ふる如(ごと) 天(あめ)の下治めたまひし 伊邪本和氣(いざほわけ)の 天皇(すめらみこと)の御子 市辺の 押歯王(おしはのみこ)の 奴末(やつこすえ)

伊邪本和氣命(履中天皇)の御子・市辺押歯王の子孫と聞いて国司はブッたまげて床から転げ落ち、二人の王子を左右の膝の上に坐らせて泣き悲しみ、仮宮を作って都に知らせたのでした。この二人の王子(兄・意祁命(おけのみこと)、弟・袁祁命(をけのみこと))は即位するのを譲り合い、弟の袁祁命が先に即位します(顕宗天皇)。八年後に38歳で崩御されると、兄(仁賢天皇)が即位されたのでした。
 この二王子が逃亡中に尾張に来たことは、記紀には記されていませんが、当地には二王子が尾張国一宮・真清田神社(ますみたじんじゃ)へ向かう途次、この黒田明神の森に駕籠を止めて泊まられたと伝わるそうです。ちょうど陰暦8月15日の満月の夜、村人たちがふるまった里芋の料理をお二人は喜んで食べたとのこと。今でも毎年、二王子に里芋をお供えする御駕籠祭が続けられています。
 「古事記」によれば、即位した顕宗天皇は父・市辺忍歯王のご遺骨を探し出し、御陵を作ったのでした。そして、父を射殺し身を切って土に埋めた雄略天皇への怨みから、雄略天皇の御陵を破壊しようとします。すると、兄の意祁命(おけのみこと、後の仁賢天皇)が自分にやらせてほしいと申し出、天皇が許すと、意祁命は雄略天皇の御陵をほんの少し掘って帰ってきたのでした。天皇からなじられた意祁命は、
「父王の怨みをその霊に報いんとするのは、もっともなことだ。しかし、大長谷天皇(雄略天皇)は父の従兄弟でもあり、また天下を治められた天皇だ。父の仇であるからといって天下を治められた天皇の陵を破壊したりすれば、後世の人々は必ず誹謗するであろう。でも父の仇は返さねばならぬ、それで、少しその陵を掘ってきたのだよ。後の世に示すには、これで充分ではないか。」
兄の奏上に、顕宗天皇も納得したのでした。
 ところで、籠守勝手神社の現在の祭神は、瀬織津比メ(口偏に羊)命と淀比メ命となっていますが、当社には「籠守黒田大明神本地之像」が伝わっており、これは当社の社僧であった法蓮寺の延享2年(1745)の記録にある「水神丹生四社大権現之図」であるようです。祭神は、丹生津比賣神を始めとする高野山の鎮守・丹生四所明神だったのでしょうか。瀬織津比メ命は「中臣祓」に出てくる祓戸四神の一神、丹生津比賣神と同様、水の神さまです。「中臣祓」には、

科戸(しなど)の風の 天の八重雲を 吹放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を 朝風夕風の 吹掃ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳(へ)解放ち艫(とも)解放ちて 大海(わだ)の原に押放つ事の如く 彼方(をちかた)の繁木が本を 焼鎌の敏鎌(とがま)以て打掃ふ事の如く 遺(のこ)る罪は在らじと 祓ひ給ひ清め給ふ事を

とあります。
 越後の良寛和尚は、「五陰皆空なりと照見して、一切の苦厄を度す、という心を詠める」という長歌、つまり般若心経の心を詠んだ歌の中に、この中臣祓の句を使っています。

・・・大津の辺にいる 大船の へ綱解き放ち とも綱解き放ち 大海原の上に 押し放つ ことのごとく 遠方や 繁木が本を 焼鎌(やいがま)の 利鎌(とがま)もて 打ち払う ことのごとく 五つの陰を さながらに 五つの陰と 知るときは 心もいれず 事もなく 渡し尽くしぬ 世の事事も (「蓮の露」)

良寛和尚は禅の修行をされた方ですが、一宗一派にとらわれず、宗派を越えたお方。良寛さんの生家は出雲崎の名主で、代々、石井神社(いわいじんじゃ)の神主も勤めていました。仏教の宗派のみならず、仏・儒・神・道の垣根も超えた良寛さんの歌の中では、五陰皆空も六根清浄も一つです。般若心経の心も大祓の心も 、一つです。
 籠守勝手神社から、南東へ行道。この辺りの神社は境内が広く、民家と畑地越しに社叢林がけっこう遠くから望めます。黒田の白山神社に参拝。


平安時代には黒田天神と呼ばれていたようで、その後白山権現が勧請されたそうです。境内は明るく静か、拝殿前で早くも梅が咲いていました。


般若心経と白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えし、白山権現と市辺忍歯王・顕宗天皇・仁賢天皇を供養。さらに南東へと足を進め、伊冨利部神社に参拝しました。


祭神は若都保命(ワカツホノミコト) 、伊福部氏の祖神です。天忍穂耳尊の長男・天火明命(アメノホアカリノミコト)の御子で、天忍穂耳尊の孫にあたります。ここも境内は広く、古墳の上には浅間社が祀られています。


拝殿にて天照大御神~天忍穂耳尊~天火明命~若都保命の四代の神々を供養しました。
 伊冨利部神社から、南へ。正午すぎに石刀神社(いわとじんじゃ)に参拝。


祭神は、天の岩屋戸から天照大御神を引き出した天手力男命(アメノタジカラヲノミコト)のようです。石刀神社から西へ歩を進め、県道に出て南下。学校の隣に野宮神明社という社があり、千手観音さまとお地蔵さまも祀られています。天照大御神に参拝し、県道をさらに南側へ。黒田の白山社から一時間ほどで、酒見神社(さかみじんじゃ)に着きました。垂仁天皇の王女・倭比賣命(ヤマトヒメノミコト)は、天照大御神を伊勢に祀られたお方ですが、その途次、当村に来られた時に建てられたのが酒見神社とのことです。


倭比賣命の甥・小碓命(日本武尊(ヤマトタケルノミコト))は、父・景行天皇から東国征伐を命じられた際、伊勢神宮で倭比賣命から草薙劒(くさなぎのたち)を与えられ、無事に東国を平定したのでした。日本武尊は尾張の美夜受比賣(ミヤズヒメ)の許に草薙劒を置いたまま伊吹山の荒神退治に行き、致命傷を負って鈴鹿の能褒野で亡くなります。草薙劒は、尾張の熱田神宮に祀られることとなったのでした。
 酒見神社から日光川を渡り、尾張国一宮・真清田神社へ。祭神は天忍穂耳尊の長男・天火明命。先ほど参拝した伊冨利部神社の祭神・若都保命の父です。天火明命の母は、萬幡豊秋津師比賣命(ヨロヅハタトヨアキヅシヒメノミコト)。このお方は、天地開闢の時に生まれた天之御中主神に次いで現われた高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)の、娘です。天火明命の弟・邇邇芸命(ニニギノミコト)は、大己貴命(大国主神)の国譲りの後、高天の原から葦原の中つ国に降臨された天孫。高御産巣日神(高木神)は、天つ神の葦原の中つ国への降臨を天照大御神と共に指揮する、最高権力者。高御産巣日神の次に生まれた神産巣日神(カミムスヒノカミ)は、大己貴命(大国主神)を生き返らせたり、多くの御子を出雲国に送った、出雲の「御祖(みおや)」。天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三神は「独神(ひとりがみ)」であり、まだ男性・女性の分化が進んでいない根源的・両性具有的な存在ですが、高御産巣日神と神産巣日神との間に、すでに後の伊弉諾尊と伊弉冊尊の対立・天照大御神と須佐之男命の対立・天忍穂耳尊と大己貴命の、天つ神と国つ神との対立の萌芽が感じられます。 対立・分化と、融和・統合。それが、太古からの神々と人間の根本課題なのでしょうか。
 真清田神社本殿の隣に鎮座する服織神社(はとりじんじゃ)には、天火明命の母・萬幡豊秋津師比賣命が祀られています。天照大御神の太子・天忍穂耳尊の妻であり、高御産巣日神の娘であり、天火明命と天孫・邇邇芸命の母。


本殿に参拝し、高御産巣日神に始まる天孫の系譜に思いを致しました。


 真清田神社から南へ行道、四十五分ほどで妙興寺の北に鎮座する北浦神社に参拝。


妙興寺の広大な境内の周りを西~南へ迂回し、参拝。仏殿にて般若心経をお唱えしました。


一宮市博物館には、かつての真清田神社と妙興寺の境内や周辺を復元した模型があり、先ほど参拝した北浦神社には「天王宮」とあります。その東側には権現宮(東市場社)があり、西側には白山社。天王宮の祭神は牛頭天王でしょうか。境内を出、東から北へと行道し東市場社(権現宮)に参拝。


西に歩を進め、北浦神社にて牛頭天王(須佐之男命)ご宝号をお唱えしました。さらに西へ進むと、博物館の模型の通り、白山社が鎮座していました。


白山権現ご宝前で般若心経と白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えし、天神地祇の均衡・融和を拝み、三世の諸仏を供養し、生きとし生けるものの平安を祈りました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝