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知多・豪潮律師順礼

 享和2年(1802)、宝篋印塔八万四千造立の大願の最初の塔として、肥前・基山の大興善寺に立塔した肥後出身の天台僧・豪潮律師。九州各地に宝篋印塔を造塔安置した律師は、文化14年(1817)69歳の時に尾張藩主・徳川斉朝に招かれ、尾張に移りました。文政2年(1819)、知多郡の岩屋寺に止住され、文政6年(1823)に柳原の長栄寺に移るまで岩屋寺を中興し、顕密二教、ことに念仏の教えを弘められ、宝篋印塔の造立も継続されました。8月2日、知多郡内の律師の宝篋印塔を巡拝してきました。
 乙川駅で降車し、7時半に海蔵寺に参拝。境内に入ると、豪潮律師の塔と一目で分かる壮大な宝篋印塔がありました。


海蔵寺は曹洞宗の寺院。碑文によれば「文政二辰」、豪潮律師の勧発によるもので、文政11年(1828)秋に落成しています。文政2年(1819)は卯歳、翌3年が辰歳なので、文政2年か3年に発願したとして、完成まで八~九年かかっています。文化14年(1817)に尾張に移った豪潮律師は、肥後出身の法友・珍牛禅師が住していた名古屋の曹洞宗・萬松寺に掛錫し、文政元年(1818)には萬松寺にも宝篋印塔を造立しています(この塔は現在、鶴見の総持寺にあります)。海蔵寺に立塔されたのは、萬松寺との縁によるものでしょうか。
 宝篋印塔とは、中に「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」を納めた宝塔です。「宝篋印陀羅尼経」に、
「此れ大全身舎利の積聚せる如来の宝塔なり。一切如来の無量倶胝の心陀羅尼密印法要、今其の中に在す。」
と、お釈迦さまが金剛手菩薩に説いておられます。また、宝篋印陀羅尼の中には現在・未来の一切如来の分身のお姿・過去諸仏の全身舎利(ご遺骨)・諸仏の法身・報身・応身の三身が在す、とも説かれています。つまるところ、宝篋印陀羅尼とは過去・現在・未来の一切諸仏の全身(法身・報身・応身)に他なりません。スリランカの寺院跡で「宝篋印陀羅尼」のサンスクリット銘文が出土しており、「宝篋印陀羅尼経」の漢訳本は、弘法大師・円仁上人・円珍上人によって日本に請来されています。(林寺正俊「宝篋印塔陀羅尼の梵漢比較」(日本古寫經善本叢刊第六輯 金剛寺蔵宝篋印陀羅尼経))
 宝篋印塔には、「宝篋印陀羅尼経」の
「若し有情有りて、能く此の塔に於いて一香一華もて礼拝供養せば、八十億劫の生死重罪、一時に消滅し、生には災殃を免れ、死しては仏家に生ぜん。」
の経文が記されていることが多いのですが、実際に香華が手向けられている塔は、残念ながら多いとはいえません。今年(2017年)5月に参拝した長崎・本河内の豪潮律師宝篋印塔(文化8年(1811)建立)には、花がお供えしてあり、お香を捧げることもできました。


海蔵寺の塔も同様であるのは、有難いことです。塔前にて宝篋印陀羅尼を誦し、知多郡、および豪潮律師八万四千塔有縁の各地の生きとし生けるものが、生死の海を超えて涅槃の岸に到らんことを祈りました。
 海蔵寺から歩いて阿久比川を渡り、8時半前に半田の住吉神社に参拝。


神功皇后の征韓にまつわる住吉三神と仲哀天皇・神功皇后を祀った社です。踏切を渡って南へ足を進め、丘を登ってゆくと町名が「白山」となり、丘を下って9時に白山社に参拝しました。


孝徳天皇の時代(在位645~654)の創建と伝わる古社です。車道に下って南へと一心に行道。街中を過ぎると視界も風通しもよくなり、南に山並も見えてきてホッとします。10時に武豊の玉鉾神社に参拝。


明治天皇の父・孝明天皇を祀った社で、境内には観音さまや不動明王も祀られる神仏和合の社です。玉鉾神社からさらに南下、再び「白山」という町名が現われ、周囲には田畑や草地が増えてきました。10時半に真楽寺に参拝。浦島太郎が助けた亀のお墓があり、念仏をお唱えしました。


当地が浦島太郎伝説の地であるとは、知りませんでした。海側に、火力発電所の煙突が見えました。


 11時前、富貴の天台宗・圓観寺に参拝。


隣の白山神社参拝のついでに寄ったのですが、此処で思いがけぬものに出会いました。山号の掛かった本堂にて阿弥陀さまに念仏をお称えし、境内を巡拝していると、隅の方に宝篋印塔が建っているではありませんか。


碑文は薄れていますが、天保七丙申とあります。お寺の方にお尋ねすると、山号を書かれたのは豪潮律師とのこと。見直すと、確かに「八萬四千煩悩主人豪潮書」とあります。天保7年(1836)は豪潮律師が名古屋で遷化された翌年にあたります。この宝篋印塔は、律師の生前から計画・施工されていたのでしょうか。宝篋印陀羅尼を誦し、み仏と白山権現・豪潮律師のお導きに感謝を致しました。
 美濃・郡上の白山中宮長瀧寺にある豪潮律師宝篋印塔は、天保4年(1833)に建立されたものですが、「白鳥町史」によれば、長瀧寺竹本坊による建立願が出されたのは文政13年(1830)。長瀧寺持善坊が柳原長栄寺にて豪潮律師の書かれた梵字を貰い受けたのが、天保2年(1831)正月(塔内に納める宝篋印陀羅尼は後送)。同年11月26日には、三重目の基台まで出来上がっています。


建立願から完成までに三年ほどかかっているのです。そもそも豪潮律師の八万四千塔の願は、アショーカ王(阿育王)の八万四千舎利塔や、呉越王・銭弘俶の八万四千宝篋印塔(金塗塔)造立のような為政者による事業とは異なり、律師が勧進して結縁する施主を募り、施主の需めに応じて律師が梵字や碑文の原稿、納入する宝篋印陀羅尼を書き、施主や、施工に関わったすべての人々が宝篋印塔造立安置の功徳を得られるように、さらに、後世にこの塔を礼拝供養する人々が功徳を得られるようにとの大願であったはずです(重源上人の東大寺再建や、鉄眼禅師の一切経開版の発願・勧進と同じように。円空上人の十二万体造仏の大願も、けってして上人が独りで好き勝手に彫って自分だけの救いを求めたのではなく、一一の仏像には施主があったことでしょう)。
 
若し末世の四輩の弟子・善男善女、無上道の為に力を尽くして塔を造り、神呪を安置せば、得る所の功徳、説けども尽くすべからず。(「宝篋印陀羅尼経」)

圓観寺の隣の白山社に参拝、灯籠には「渡海安全」「邑中安全」と記されてありました。
 海岸へと向かい、竜宮神社に参拝。天長2年(825)、浦島太郎が竜宮城から帰った後、竜宮を偲んで建立したとのことです。


竜宮神社から南下すると、お昼前に海岸に出ました。彼方に帆船が見えます。


知多湾の潮風を浴びつつ、南へと行道。


十二時半、海を見下ろす高台の時志観音(影現寺)に参拝しました。ご本尊の十一面観音さまは、天長4年(827)に三河湾の佐久島で漁夫の網にかかり、祀られたとのことです。


13時前に河和駅前に出、岩屋寺へと一心に歩いてゆきました。


 峠を越えて下ってゆき、14時すぎに岩屋寺着。本堂にて千手観音さまに般若心経をお唱えし、豪潮律師の宝篋印塔のことをお尋ねすると、ご住職が案内してくださいました。経蔵の前に、宝塔はありました。


碑文には文政三庚辰(1820)とあります。岩屋寺は霊亀元年(715)行基菩薩が開山、一世紀後には弘法大師が百日間の護摩修行をされましたが、戦国時代以降廃れていたそうです。文政2年(1819)、尾張藩主・徳川斉朝は豪潮律師を岩屋寺に請じ、中興第一世と崇めました。岩屋寺は天台宗の寺院でしたが、昭和26年(1951)に豪鉄大僧正が尾張高野山として独立開宗され、現在に至っています。宝篋印塔の御前にて宝篋印陀羅尼を誦し、生きとし生けるものと共に生死の海を超え、涅槃の岸に到らんことを祈りました。
 経蔵の奥には大師ヶ岳への登拝口があり、豪潮律師が文政3年(1820)に開眼供養された五百羅漢像を拝んで参道を登ってゆきました。


山上に登って弘法大師像に参拝。


西側に海が見えました。


参道を反対側へ下ってゆくと、奥之院に出ました。


寂かな谷奥のお堂にて般若心経と弘法大師・豪潮律師ご宝号をお唱えし、暫し坐しました。短時間でしたがとても心が落ちつき、また来たくなるような処でした。
 奥之院から下ってゆくと中之院(岩窟寺)があり、軍人像が祀られていました。


昭和12年(1937)に上海上陸作戦で戦士された、名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士たちの像です。ご遺族が戦没者の一時金で写真を基に造立したものだそうです。海の彼方で亡くなられた兵士たち・・・。この苦しみの海を渡って涅槃の岸に到るには、どうしたらよいのでしょうか・・・。

南無阿弥陀仏なむあみだ仏と生まれ来て南無阿弥陀仏と共に往生
(豪潮律師辞世の歌)
 
 本堂に戻り、ご住職とお話して帰路につきました。豪潮律師の行願の広大さに改めて気づかされ、「八卍四千塔」の礼拝供養を続けてゆく決意を新たにしました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝