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津島~立田の蓮田放浪

 8月9日・長崎原爆の日の未明、ふと蓮の花が見たくなり、ねぐらを出ました。車で長良川沿いに下ってゆくと、西の空、金華山(岐阜城)の上に皓々たる満月。彼方には伊吹山のシルエット。


長良川と木曽川を渡って尾張に入り、津島の天王川公園に車を停めました。御嶽神社に参拝して東側に足を進め、舟戸町の瑞泉寺へ。


瑞泉寺は、かつては津島神社の神主邸内にあったそうです。瑞泉寺の背後に鎮座する、白山神社。


白山権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。
 天王通りに出、円空上人が延宝年間(1673~81)に彫られた千体仏を祀るお堂に参拝。


一仏一仏の尊さを念いつつ般若心経と念仏をお唱えし、72年前に長崎で亡くなられた七万人以上の方々と、長崎の墓に眠っている幼いわが子を供養しました。
 成信坊、清正公社、上河原地蔵堂と巡拝して津島神社へ。


神宮寺であった宝寿院には、津島牛頭天王社(現・津島神社)の本地仏である薬師如来が祀られています。般若心経と薬師如来ご真言をお唱えし、津島神社本殿に参拝しました。
 津島神社から、一路西へ。朝から強い日射しです。愛西市(旧立田村)に入ると、道の両脇に蓮田が現れてきました。


鵜戸川の左岸には津島社、右岸には八幡社や稲荷社。


橋を渡ってしばらく歩を進めると、戸倉の陽南寺前に「立田赤蓮発祥の地」の碑がありました。


案内板によれば、立田村の赤蓮は天保年間(1830~43)に各地に広がったそうで、発祥には二説があるとのこと。一つは、文政年間(1818~29)に陽南寺住職・竜天和尚が近江から蓮根を持ち帰り、村の方の助けを借りて湿田に植えたところ、増殖したという説。そしてもう一説は、肥後から尾張に来た豪潮律師が持参した蓮の実を竜天和尚が譲り受け、鉢に泥土を入れて蒔き、発芽したものが広まったという説。豪潮律師が尾張藩主・徳川斉朝に招かれて尾張に来たのは、文化14年(1817)68歳の時でした。名古屋の萬松寺に掛錫の後、文政2年(1819)に知多郡の岩屋寺に止住して中興、文政6年(1823)には名古屋城の北東・柳原に泰澄大師開山の長栄寺を再興して住し、天保6年(1835)に亡くなるまで、宝篋印塔八万四千造塔の行願を継続されました。律師の発願・勧進に多くの人々が賛同して結縁し、九州各地は元より、尾張移住後も名古屋や知多郡の他、三河、美濃・郡上郡さらには江戸にも立塔されました。当地に宝篋印塔が起てられたのかは分かりませんが、豪潮律師が肥後から持参した蓮の実が、二百年後の今日、八万四千の蓮の花として開花しているのかもしれません。本堂にて念仏をお称えし、長崎原爆死没者と先の大戦のすべての死没者を追悼すると共に、豪潮律師の遺徳を偲びました。
 陽南寺から西へ、木曽川の河畔まで続く広大な蓮田を放浪。


西から北西にかけて、多度や養老の山並。


東には名古屋。


木曽川河畔に下りると、前日の台風で増水した川面が北西風にさざめいていました。北西に鎮座する伊吹山は、雲を纏っていました。


西面して川岸に立ち、宝篋印陀羅尼と念仏を誦しました。

「若し悪人有りて死して地獄に堕し、苦を受くること無間にして免脱するの期無からんに、其の子孫有りて亡者の名を称し、上の神呪を誦すること纔(わず)かに七遍に至らば、洋銅・熱鉄忽然として変じて八功徳池と為り、蓮生じて足を承け、宝蓋の頂に駐まりて、地獄の門を破して菩提の道は開かれん。」
(「宝篋印陀羅尼経」)


立田の千・八万四千・千百億の蓮の花の一つ一つが、陀羅尼神呪であり、念仏であり、三昧であり、来迎の観音さまが持する蓮台でありました。私もいずれ、お迎えに来られた観音さまがお持ちになる蓮の台に坐す時が来るのでしょう。肥前・松浦郡出身で、加賀の白山七社の一つ・笥笠中宮(けがさちゅうぐう)の神宮寺で念仏三昧を行じられた西因上人の願文に、
「嗟乎、十悪五逆は風前の塵、妄想顛倒は空中の花。弥陀の白毫一たび照らさば、煩悩の黒業悉く除かれん。然れば則ち、誰か観音の金台に登らざらんや。なんぞ安養の宝池に詣でざらんや。」
(藤原敦光「白山上人縁記」)


 木曽川岸から東へ戻り、一時間程歩いて津島の天王川公園へ。


帰りの車中、ラジオから聞こえる長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の黙祷の鐘の音に合わせ、念仏をお称えしました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝