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尾張放浪~信長・信勝と白山権現1

 元亀2年(1571)冬、岐阜を訪れたフランシシスコ・カブラル神父、ルイス・フロイス神父、ロレンソ修道士らと対談した織田信長は、神父たちと信長を引き合わせる役を仰せつかっていた家老の林佐渡守(秀貞)に、「予はぱあでれどもの教えと予の心とは何等相違ないことを白山権現にかけて其方に誓う」と語っています(フロイス「日本史」柳谷武夫訳)。何故、唐突に「白山権現」の名が出てくるのか、以前から不思議に思っていたのですが、信長から日本の神について聞かれて答えた盲目の元琵琶法師・ロレンソ修道士は、肥前・平戸の白山信仰の山・安満岳の麓の白石出身です。ロレンソ修道士が返答の中で白山権現の名を出したのでは、と、先月の当ブログ「筑前肥前白山順礼2/安満岳」で指摘しておきました。しかし、もう一つの謎は、何故「林佐渡守」に誓うのか、です。
 太田牛一「信長公記」、小瀬甫庵「信長記」によれば、信長の父・信秀は幼少期の信長(吉法師)に林秀貞・平手政秀・青山信昌・内藤勝介の四人を家老として付け、那古野に築いた要害に入れています。信秀は古渡(ふるわたり)に築いた城に移り、天文15年(1546)、十三歳の信長は四家老の介添えで古渡城にて元服したのでした。林佐渡守(秀貞)は、信長の筆頭家老でありました。
 父・信秀はその後、末森城(すえもりじょう)を築いて古渡から移りました。天文21年(1552)に信秀は病没し、信秀開基の萬松寺にて葬儀が行われます。信長には先の四家老らがお供し、信長の同母弟・信勝(信行)には柴田勝家・佐久間盛重・佐久間信盛らがお供していました。「うつけ」姿で現われた信長は、焼香の際に抹香を掴んで仏前に投げつけます。一方、弟の信勝の装束や作法はきちんとしていました。信秀の居城であった末森城は信勝が譲り受け、家老の柴田勝家、佐久間信盛らと共に入りました。
 信長の二番家老・平手政秀は信長に諫言をした後、天文22年(1553)に自害してしまいます。同年、弟・信勝は白山美濃馬場・中宮長瀧寺の道雅法印に依頼して、末森に白山権現を勧請しています(「長瀧寺真鑑正編」)。道雅法印は、天文7年(1538)より白山大御前別当職にありました。前置きはこれくらいにして、いざ、現場へ出かけましょう。
 8月26日早朝、不安定な天候の中、清洲城へ。


弘治元年(1555)、信長は叔父の守山城主・織田信光と謀って清洲城主・織田信友を殺し、那古野から清洲に入城しました。以降、清洲城は信長の尾張における拠点となり、また、弘治3年(1557)、此処で弟・信勝は信長に謀殺されたのでした。現在の天守閣よりも北側に、城址と祠があります。


参拝し、信長・信勝兄弟と家老たちに想いを馳せました。それにしても、清洲の信長像は凛々しいです。


岐阜駅前の金ピカの信長像よりも、私は好きです。
 清洲から貝殻山貝塚を経て東へ歩を進め、一時間程で中小田井へ。雨は降ったり止んだり。


貝殻山貝塚には、縄文系の土器と、弥生文化東漸の指標とされる遠賀川系土器が共存しているそうです。中小田井では、6月に参拝した五所社と願王寺にまた参拝。願王寺に、豪潮律師が再興した柳原の長栄寺と同形の宝篋印塔があることを6月の当ブログ「名古屋・豪潮律師順礼」に記しました。この塔は「豪潮式」の塔とは形が違い、豪潮律師作のものとは思えず、碑文を再確認したかったのでした。薄れてよく読めませんが、「慶應二年」(1866)と読めます。


豪潮律師が遷化されたのは天保6年(1835)、年代的に律師作の塔ではありません。また、豪潮律師の宝篋印塔には、大は数メートルの石造のものから小は十数センチの木製や鉄製のものに至るまで、金剛界曼荼羅の四智如来の種字がある塔身の下にもう一段、宝篋印陀羅尼中の「シチリヤ」の梵字が書かれた塔身があり、基台には豪潮律師の八万四千造塔の大願の一つであることを示す「八卍四千之内」の字があるのが特徴です。この塔は塔身が一つですし、八卍四千の字も見当たりません。形式的にも、豪潮律師の八万四千塔ではありません。無論、だからといって宝篋印塔としての尊さには何ら変わりはありませんが、豪潮律師の塔でないことは確かです。願王寺には、この塔と向き合って一回り小さな宝篋印塔が二つ並んで起っています。


こちらは、形式はまさしく豪潮式の宝篋印塔です。が、造塔されたのはどちらも明治時代です。「八万四千之内」の文字には、豪潮律師が成し遂げられなかった大願を継承してゆこう、との願いが感じられます。私も、宝篋印陀羅尼の尊さを豪潮律師の行願に学び、後世に伝えてゆかねば、と思う一人であります。
 願王寺の隣の東雲寺には平手政秀の首塚があり、念仏をお称えしました。


信長の二番家老・平手政秀は、信長に諫言して自害しました。では、筆頭家老であった林佐渡守(秀貞)は・・・。弘治元年(1555)、信長が那古野から清洲に移った際、叔父の信光は守山城から那古野城に移りました。しかし信光は同年、家臣に殺されてしまいます。そこで信長は、那古野城を家老の林佐渡守に預けたのでした。ところが、です。翌弘治2年(1556)、林佐渡守(秀貞)は弟の林美作守(通具)、末森城主・信勝の家老、柴田権六(勝家)らと共に信勝を当主にしようと企んだのでした。信勝は末森の北方・篠木三郷を押領、信長は清洲から川を越えた名塚に砦を作り、佐久間盛重に守らせました。
 東雲寺から庄内緑地を経て庄内川を渡り、三十分程で名塚の白山社着。


かつての名塚砦跡です。弘治2年8月24日、雨の中、信勝方の柴田勝家は末森から北西へ、林美作守は那古野から北へ攻め上り、信長は清洲から東へ出兵して川を渡り、此処、稲生原(いのうがはら)で激突したのでした。初め劣勢であった信長は林美作守を討ち取り、勝家は末森に逃げ戻ります。稲生原古戦場跡には、庚申塚と「稲生合戦戦没者供養塔」と書かれた宝篋印塔が起っています。


供養塔は林美作守の子孫の方が起てたもののようで、きちんと花がお供えしてありました。

「若し有情有りて 能く此の塔に於て  一香一華もて 礼拝供養せば 八十億劫の 生死重罪 一時に消滅し 生には災殃を免れ 死しては仏家に生ぜん」
(「宝篋印陀羅尼経」)

宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、戦没者の菩提を弔いました。
 庄内通から地下鉄に乗り、覚王山へ。9時、城山八幡宮に参拝しました。


かつての末森城の跡です。小高い山中の境内には、堀が残っていました。


稲生原合戦後、信勝方は末森城と那古野城に籠城しましたが、末森城にいた信長・信勝の母が「向後非義あるべからざる旨、数通の起請を書かせ給ふ間、自らに対して宥して給べ」(「信長記」)と信長に詫び言をし、信勝も柴田勝家も林佐渡守も許されたのでした。当然、信勝・勝家・林佐渡守らは信長に起請文を出したはずです。前述の通り、信勝は末森城に長瀧寺から白山権現を勧請しており(「長瀧寺真鑑正編」)、起請文の罰文には白山権現の名があったとしてもおかしくはありません。また、末森への白山勧請には長瀧寺の道雅法印が関わっている程ですから、起請文の料紙には長瀧寺の白山瀧宝印が使われていたことも考えられます。白山瀧宝印は、三河の徳川家康が永禄3年(1560)の桶狭間の合戦後から豊臣秀吉に臣従する天正10年(1582)頃まで、起請文の料紙に使っていました(千々和到「徳川家康の起請文」)。中世、白山美濃馬場・長瀧寺は白山信仰の先達として諸国を廻り、白山瀧宝印(牛王札)配札を独占する檀那場を作っていました(山本義孝「白山長滝神鳩入峯と宿遺跡」)。信勝は稲生原合戦の前に「篠木三郷」を押領した、と「信長公記」にありますが、「尾張徇行記」によれば、篠木庄の北に鎮座する尾張白山は「篠木三十三ヶ村ノ氏神」であり、「長瀧寺真鑑正編」によれば、篠木庄の南の鳥居松は「白山一ノ鳥居ト云フ、昔ハ鳥居ヲ建立セシニ、現今ハ松ノミニテ、尾張国春日井郡勝河附近ニ在リ」とあります。鳥居松は末森の北方十キロ、尾張白山は鳥居松の北方十キロ。


(尾張白山、2017年4月登拝時)
末森への白山勧請は、篠木庄の領有を目論む信勝にとっても、戦国乱世の混乱で衰退しつつあり、三河や駿河方面の檀那場を維持したい長瀧寺にとっても、意義があったのではないでしょうか。
 信長に起請文を出した信勝らは、何のお咎めもなく許され、信勝・勝家らは末森城に、林佐渡守は那古野城にそのまま残りました。もしかしたら、その起請文は「私どもの心と信長殿の心とは何等相違ないことを白山権現にかけて誓う」といった内容であったのかもしれません。翌弘治3年(1557)、信勝は再び篠木三郷の押領を企て、龍泉寺に城を築きます。柴田勝家がそのことを信長に密告し、信長は病と偽って母と信勝を清洲城に招き、見舞いに来た信勝を殺害したのでした。
 末森城から、桃巌寺へ。


信勝が父・信秀の菩提を弔う為に建てた寺院です。境内に「織田信秀公廟所」があり、傍らには宝篋印塔。


宝篋印陀羅尼と念仏を誦し、信秀・信勝父子の菩提を弔いました。稲生原合戦から二十四年後の天正8年(1580)、林佐渡守(秀貞)は突然、信長にかつての謀反の罪を問われて追放されました。合戦から十五年後の「ぱあでれどもの教えと予の心とは何等相違ないことを白山権現にかけて其方に誓う」の語も、かつての謀反と起請文を当てこすっての、信長の執念の現われだったのかもしれません。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝