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尾張放浪~信長・信勝と白山権現2

 本山駅から電車に乗り、11時に桶狭間古戦場に着きました。


永禄3年(1560)、駿河・遠江から三河に所領を広げた今川義元が大軍を率いて尾張に侵攻しましたが、此の地で信長の奇襲に遭い、敢えない最期を遂げたのでありました。白山美濃禅定道登拝の中継拠点・石徹白には、今川義元が天文9年(1540)に出した判物の写しが伝わっており、石徹白における駿河・遠江両国の道者の宿坊の事は、今までと相違なきようにせよ、とあります。駿河・遠江にも、石徹白御師や長瀧寺の檀那場があったことが分かります。古戦場には今川義元戦死所の石碑や墓碑があり、念仏をお称えして合戦戦没者の菩提を弔いました。


 桶狭間から、東海道有松宿を散策。


祇園寺、有松天満社と巡拝し、有松絞りの店に寄っているうちに、正午となりました。


雨はすっかり、止みました。有松から電車に乗り、熱田神宮へ。永禄3年(1560)5月19日の明け方、清洲城で幸若舞「敦盛」を舞って出陣した信長は、熱田神宮に参拝して戦勝祈願をしています。

「彼は多勢四万有余に及び、此は無勢僅に三千にだも足らず。寡を以て衆に対す、恰も蟷螂の車轍に当るに似、蚊子の鉄牛を咬むに同じ。敢て当社の神力を頼むに非ずんば、争でか之に勝つことを得んや。伝え聞く尊日本武の古、東夷を蒲原に亡せしなり。嘉兆符契を合するが如し。・・・」(小瀬甫庵「信長記」)

熱田神宮は、日本武尊が東征の前に叔母のヤマトヒメから与えられた神剣、「草薙剣」を祀る社です。東征を無事に終えた日本武尊は尾張のミヤズヒメと一夜をすごし、草薙剣をミヤズヒメの元に置いたまま、手ブラで伊吹山の荒神退治に向かいました。しかし、伊吹の神の大氷雨に致命傷を受け、故郷・大和への途上、伊勢の能褒野で亡くなったのでした。ミヤズヒメが草薙剣を祀って建てたのが、熱田神宮です。信長は日本武尊の東征にあやかり、「東夷」たる義元を亡ぼさんことを熱田大明神に祈願したのでした。
 参道を本宮へと進んでゆくと、参道と直角方向に続く塀が現われました。


桶狭間合戦の勝利の御礼として信長が奉納した、「信長塀」です。信長は天正3年(1575)、武田勝頼との長篠の合戦の前にも熱田大明神に参拝し、戦勝後に宮々の造営をした、と「信長記」にあります。信長にとって、熱田大明神は東国平定の守護神であったようです。
 宝物館には、元亀元年(1570)の織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の姉川の合戦で討ち死にした朝倉方の猛将・真柄十郎左衛門の巨大な太刀がありました。刀長221.5センチ、刀身の重さ4.5キロ。また、能面の中には三光入道作の極め銘がある三番叟の面がありました。三光坊は、戦国時代の白山越前馬場・中宮平泉寺の僧で、能面打ちの名人です。織田信長は姉川の合戦後も越前の朝倉義景・北近江の浅井長政・比叡山延暦寺・大坂の石山本願寺などによる「信長包囲網」に苦戦を強いられ、元亀2年(1571)6月に白山三所権現の一つ・別山大行事権現(本地・聖観音菩薩)に鰐口を奉納しています。


(別山、2017年7月、白山美濃禅定道登拝時)
越前平定を祈願してのことでしょう。そして9月には比叡山焼き討ちをしています。カブラル神父・フロイス神父・ロレンソ修道士らが岐阜に信長を訪問したのは、その年の冬でした。
 天正元年(1573)、信長はついに北近江で朝倉義景に壊滅的な打撃を与え、義景は本拠地・越前一乗谷へ敗走、それまで朝倉氏に味方していた白山越前馬場・六千坊の巨大寺院、平泉寺を頼ろうとしました。が、平泉寺は朝倉景鏡と共に信長方に寝返ってしまいます。義景は越前大野で自害して果てました。平泉寺の決断は、義景を匿えば延暦寺と同様の結末になるであろう状況においては、やむを得なかったのかもしれません。しかし、石山本願寺・顕如上人はただちに越前一向一揆の蜂起を指令、翌天正2年(1574)、景鏡を匿った平泉寺は一向一揆勢に焼き討ちされ全山焼失、平泉寺院主も景鏡も自害したのでありました。


(平泉寺、2017年6月、白山越前禅定道登拝時)
 翌天正3年(1574)、信長は越前の朝倉残党と一向一揆平定の為、敦賀に出陣しました。この戦には、弘治3年(1557)に信長が清洲城で謀殺した弟・信勝(信行)の嫡男・信澄も参陣しています。信澄は父の死後、柴田勝家に養われたのでした。信長本隊は敦賀から北上して越前を制圧しましたが、美濃側からも金森長近・原長頼が徳山から奥越へ侵攻、また「長瀧寺真鑑正編」によれば、郡上からは日根野盛就や遠藤慶隆らが長瀧寺衆徒の案内で「二ノ宿」を通って奥越に侵攻、穴馬にて金森長近らと合流しています。越前を平定した信長は越前国八郡を柴田勝家に与え、うち大野郡は金森長近と原長頼に与えています。
 熱田神宮を13時半に発ち、北へと歩を進めました。熱田神宮の摂社・高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)に参拝。


信長が本殿を造営したそうです。また、末社の稲荷社は、豊臣秀吉が幼い頃、母に手をひかれ参拝したと伝わる社です。


さらに北上して金山を過ぎると、ビルや高架の間に東別院の大きな屋根が見えてきました。熱田から一時間強で東別院着。


信長の父・信秀が築いた古渡城の跡地、天文15年(1546)に十三歳の信長が元服した処です。


信秀はその後、末森城に移り、末森城を信長の弟・信勝に継がせます。信長と父・弟、家老の林佐渡守や平手政秀、柴田勝家らに想いを馳せ、念仏をお称えしました。
 天正8年(1580)、信長は十年戦い続けた石山本願寺と講和すると、突如、重臣・佐久間信盛を追放、さらに、元服前から信長付の筆頭家老であった林佐渡守(秀貞)を、二十四年前の謀反を理由に追放しています。同年、かつて林佐渡守らと共に謀反を起こした柴田勝家は、百年近く続いていた加賀一向一揆を遂に平定しました。「白山比メ神社略史」によれば、白山三所権現の一つ・大汝峰頂の大己貴社(本地・阿弥陀如来)の社殿を天正8年に織田信長が建立しており、おそらく、熱田神宮における桶狭間合戦や長篠合戦後の奉納・造営と同様、加賀平定の御礼として社殿を再建したのでありましょう。信長にとって、熱田大明神が東国平定の守護神であったように、白山大権現は北陸平定の守護神であったようです。


(大汝峰、後ろに御前峰。2017年5月、白山加賀禅定道登拝時)
 東別院の隣の下茶屋公園も、古渡城の跡地です。


古渡から松原を北上し、西大須の白山神社に参拝。


白山三所権現(白山妙理大権現・別山大行事権現・越南知大権現)ご宝号をお唱えし、暫し境内に佇みました。天正10年(1582)、天下統一目前の信長・信忠父子は、明智光秀に討たれます。かつて信長に殺された弟・信勝の嫡男・信澄も、妻が光秀の娘であった為、信長の三男・信孝から疑われて討たれてしまいました。かつて信勝の家老であり、信勝死後に信澄を養育した柴田勝家は、翌天正11年、賤ヶ岳で豊臣秀吉に敗れ、越前北ノ庄にて信長・信勝の同母妹・お市の方と共に自害して果てました。
 戦国乱世の時代は、武士ばかりでなく、農民や一部の坊さんまでもが武器を持たざるを得ない時代でした。平和とは、こうした争いによる無数の犠牲の上に築かれたものであるということを、私たちは忘れてはならないと感じます。国同士・人間同士が武器を持たざるを得ない状況になりつつあるような現在、平和の尊さと脆さを、今一度噛みしめる必要があるのではないでしょうか。
 加賀の白山七社の一つ、笥笠中宮・神宮寺の平安時代後期の僧、西因上人の念仏三昧願文をお唱えし、苦しみの世界にあっても、み仏の国との因縁が私たちの誰にも与えられていることの有難さを念いました。

「娑婆世界、極楽国土と浄穢異なりと雖も、機縁甚だ深し。其の中、我が日本国は仏法、他境より繁昌す。是を以て、辺鄙下賤の人民たりと雖も、誰か見仏聞法の功徳無からん。定めて知る、浄刹に因有るの輩、斯の土に生まるること明らかなり。嗟乎、十悪五逆は風前の塵、妄想顛倒は空中の花。弥陀の白毫一たび照らさば、煩悩の黒業、悉く除かれん。然れば則ち、誰か観音の金台に登らざらんや。なんぞ安養の宝池に詣でざらんや。・・・」(藤原敦光「白山上人縁記」)

南無白山妙理大権現
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝