FC2ブログ

記事一覧

加賀・白山中宮三社~高倉山順礼1

 かつて、白山加賀馬場には本宮四社(白山本宮・金劔宮・三宮・岩本宮)と中宮三社(笥笠中宮・佐羅宮・別宮)の七社があり、笥笠中宮(けがさちゅうぐう)は白山本宮と並ぶ、白山加賀禅定道の拠点でありました。9月15日、中宮三社を歩いて順拝してきました。
 朝7時半、笥笠中宮神社に参拝。


笥笠中宮は平安時代末期から南北朝時代前期に繁栄し、加賀禅定道に中宮三社を形成し、能美・江沼両郡に中宮八院などの末寺を擁していました。しかし、南北朝期に南朝方と結んで衰退し、戦国時代永正6年(1509)には中宮宝台坊が宿坊としてわずかに存続、江戸時代に残っていたのは、中ノ宮と呼ばれた産土社と、葛籠宮の小社のみであったそうです。明治5年(1872)に白山が石川県の管轄となり、白山比メ神社(かつての白山本宮)が山頂を支配するようになると(江戸時代は越前の平泉寺が支配)、中ノ宮は笥笠中宮神社となり、白山比メ神社の境外摂社とされました(「吉野谷村史」)。般若心経を読誦し、笥笠中宮本地・如意輪観音菩薩ご真言をお唱えしました。
 笥笠中宮の周辺から、白山頂部の四塚山を遥拝。


白山加賀禅定道登拝の際、四塚山や奥長倉から中宮の集落がよく見えますが、この中宮の集落が、かつての笥笠中宮の境内であったそうです(「吉野谷村史」)。


(奥長倉より中宮の集落を遠望。2017年5月白山加賀禅定道登拝時)

長寛元年(1163)成立の「白山之記」によれば、笥笠中宮には神殿・拝殿・彼岸所・講堂(本尊は大日如来)・常行堂(本尊阿弥陀如来)・法華三昧堂(本尊普賢菩薩)・不動堂・夏堂・鐘楼などが建ち並んでいました。保安2年(1121)、笥笠神宮寺の西因上人は、「末法万年の間、弥陀の一教を遺す」べく、半丈六の金色の阿弥陀如来像を祀り、昼夜不断の念仏三昧行を発願されました(藤原敦光「白山上人縁記」)。西因上人は肥前国松浦郡の出身、十四歳で出家し、比叡山に上って登壇受戒の後、諸国で難行苦行の末に白山に到り、四十三年の久修錬行を経てこの大願を発したのでした。
 上人の行は、「先ず一万年の星霜を契り、十二口の夏臈を定め置き、昼夜不断に弥陀の名号を念じ奉る」ものであったとのことです(「白山上人縁記」)。比叡山の僧であり、長年、白山で修行された西因上人の念仏三昧行とは、おそらく、「摩訶止観」に説かれる四種三昧の行の一つ・常行三昧でありましょう。常行三昧とは「九十日、身に常に行(あゆ)んで休息することなく、九十日、口に常に阿弥陀仏の名を唱えて休息することなく、九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息することなかれ」(「摩訶止観」)と説かれている修行です。諸国遍歴の後に四十三年も白山で修行された西因上人は、当時すでに高齢であったはずです。死を賭しての行願であり、おそらく、上人は力尽きるまでこの行をなさったのでしょう。

「若し白山の名を聞く善悪諸衆生、生死に流転せば、我れ即ち成仏せじ。若し此の善に結縁する遠近諸衆生、極楽に坐せずんば、我れ即ち往生せじ。」
「嗟乎、十悪五逆は風前の塵、妄想顛倒は空中の花。弥陀の白毫一たび照らさば、煩悩の黒業悉く除かれん。」
「此の会結縁の輩、此の地促膝の人、今生には鎮に我が山の加護を蒙り、当来には必ず彼岸の覚位を證せん。」
(「白山上人縁記」)

 笥笠中宮神社から加宝社へと下ってゆく途中、尾添大橋にたくさんのお猿さんがいました。


この辺りがかつての「葛籠の渡し」でしょう。


加宝社には、秋の祭礼の飾りつけがされていました。本地・虚空蔵菩薩に掌を合わせ、尾添の白山下山仏社へ。


明治の神仏分離の際、加賀禅定道の檜新宮から下山させられた仏像が祀られています。建保4年(1216)作の阿弥陀さまの御前で念仏をお称えし、わが国のみならず、隣国の人々の煩悩の黒業も悉く除かれんことを祈りました。西因上人が祀った阿弥陀さまの像も、このような像であったのでしょうか。
「是れ則ち妙理権現の初めて弥陀身を現はす所以なり。」(「白山上人縁記」)
 8時半に中宮の集落に戻りました。


「白山之記」に、笥笠中宮の鎮座地は「崇山八方を周りて形は蓮華の華に似たり」と形容されていますが、実際に歩いてみると、まさにその通りです。中宮から尾添川沿いに下流へ。白山加賀禅定道登拝の際、いつもこの辺りの道は車で通っているわけですが、やはり実際に歩くのと車で通過するのとでは、天と地ほどの違いがあります。スノーシェッドの脇に、「瀬戸御鍋」という御手水鉢がありました。


案内板によれば、泰澄大師が開いたと伝わる白山三禅定道の一つ・加賀禅定道には二ヶ所の御手水鉢があり、一つが此処とのことです。もう一つは、山頂部・七倉山と大汝峰の鞍部にある御手水鉢でありましょう。


(御手水鉢、2016年6月白山加賀禅定道登拝時)

心経を読誦し、泰澄大師を偲びました。
 さらに下って瀬戸神社に参拝。昔、樹上に棲みついた天狗が夜中に大声で泣いたという「夜泣きイチョウ」に掌を合わせました。


瀬女の道の駅前を通り、右手に高倉山を見上げつつ行道。


濁澄橋を渡った処にある木滑新の八幡神社も、今日が祭礼です。尾添川は手取川と合流し、北へと流下。10時前に木滑神社に参拝、境内には仏御前の安産岩が祀られていました。


平清盛に寵愛された白拍子・仏御前のことは「平家物語」に書かれています。仏御前は、かつて清盛の寵愛を受けていた白拍子・祇王が仏御前と入れ替わりに飽きられ、尼となったことに、「いつかわが身のうへならん」と無常を観じ、程なく清盛の許を去り、尼となって祇王の庵を訪れたのでした。当地の伝承によれば、清盛の子を宿していることに気づいた仏御前は、近江・美濃・越前大野を経て故郷の原(現・小松市原町)へと向かう途中、木滑で石にもたれて出産したそうです(「吉野谷村史」)。その子は数日で亡くなったとのことですが、石は安産の神として今も信仰されています。
 瀬波川を渡り、10時半前、山側の踏み跡を登って佐羅早松神社に参拝。


かつての中宮三社の一つ・佐羅大明神宮です。本地は不動明王、小社の早松社と並松社の本地は文殊菩薩と普賢菩薩、後に並松の名は消えて早松社に統一されました。「平家物語」に、安元元年(1175)、後白河法皇の近臣・西光の子である藤原師高が加賀守となり、翌安元2年(1176)、目代として弟の師経が加賀に下向すると、師経は鵜川(現・小松市)にあった中宮八院の一つ・涌泉寺に乱入して湯浴みしていた寺僧を追い出し、馬を入れて洗ったことが記されています。怒った僧たちと乱闘になり、師経は兵を集めて涌泉寺を焼き払ったのでありました。末寺を焼かれた白山中宮三社八院の大衆は決起して師経の館に押し寄せ、師経は京に逃げ帰ります。さらに翌安元3年(1177)、白山中宮三社八院の宗徒は早松社の神輿を振り上げ、敦賀・近江・琵琶湖を経て東坂本に上陸、日吉山王七社の一つ・白山権現を祀る客人宮に神輿を入れ、本寺である比叡山に登ったのでした。延暦寺宗徒は師高と師経の処分を求めて十禅師・客人・八王子の神輿を振り上げ、師高・師経は流罪に処せられました。
 平安時代末期、笥笠中宮を中心とする中宮三社が繁栄していたことを偲ばせる史実ですが、武力や権力に頼るその姿には、これより半世紀前に笥笠神宮寺で念仏三昧を厳修された西因上人の行願とは、相容れないものを感じます。自らを拠り処とし仏法を拠り処とするのが僧のあるべき姿、西因上人の行願は、白山信仰の白眉であると思います。後世の笥笠中宮衰退の一因は、武力や比叡山の権力を拠り処としたところにあったのではないでしょうか。江戸時代文化年間(1804~1817)に書かれた「越前国名蹟考」には、「元亨釈書」にある、白山の蔵縁という僧が晩年に庵を結んだ「笥笠と云所尋れ共しれす」と、すでに笥笠という所が何処にあるのかさえ分からない有り様で、元禄15年(1702)成立の「本朝高僧伝」にも、「白山上人縁記」の笥笠が何処なのか分からないとみえて、「越前神宮寺沙門西因」と書かれています。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。」(「平家物語」)

尚、藤原敦光「白山上人縁記」の原文はこちらからご覧いただけます。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/viewer/viewerArchives/0000000481
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝