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筑前肥前白山順礼3/芦屋・今津

 二ヶ月前(2017年7月)、西海・平戸の白山信仰の山・安満岳に初めて登りましたが、限られた時間の中で、この山のほんの一部を体験できたのみでありました。これも「またきないよ」との白山権現の思し召し、と、再び西海へ旅立ったのでした。
 9月19日早朝、壇之浦から関門海峡を渡って九州へ。


小倉から電車に乗り、遠賀川駅で降車。駅舎は先月末の火災のため通れず、臨時改札が設けられていました。


芦屋タウンバスに乗り、遠賀川河口の港町・芦屋へ。目的地は豪潮律師が起てた宝篋印塔です。始めに岡湊神社に参拝。明治の神仏分離までは祇園宮、千光院と称していたそうです。神社の隣の千光院跡には、寛永14年(1637)の島原の乱の際、当地・黒田藩の将士が原城から持ち帰って移植したと伝わる大蘇鉄がありました。また、その隣には空也上人を祀る安長寺のお堂があり、念仏をお称えしました。


 遠賀川沿いに下流へ。対岸の城山の麓には、白山神社。


安養寺にお参りし、寺の裏手に回ると、豪潮さんの宝篋印塔が現われました。


高さ六m強。私が毎月、白山鳩居峯順拝の際に礼拝している、白山美濃馬場・中宮長瀧寺の宝篋印塔と同じくらいでしょう。かつて当地には海雲寺という寺院があり、寛政9年(1797)に芦屋・山鹿で発生した大火災の犠牲者の供養の為、豪潮律師と地元の人々が享和3年(1803)に建てたのがこの塔です。肥後・玉名郡出身の天台僧・豪潮律師が、宝篋印塔八万四千造立の発願をされて最初に起てた塔は、享和2年(1802)、肥前基山の大興善寺の塔です。海雲寺の宝篋印塔は、その翌年に造立されたことになります。
「此の塔に於いて、一香一花もて礼拝供養せば、八十億劫の生死重罪、一時に消滅せん。」(「宝篋印陀羅尼経」)
花はお供えしてありませんでしたが、お水がお供えしてありました。
 一切の諸仏の全身舎利を納める宝塔の御前で宝篋印陀羅尼を誦し、礼拝・右繞。塔の脇に「豪潮庵」という小堂があり、中にお地蔵さまが祀られています。かつて塔を移動した際、地下から出てきたお地蔵さまの像とのこと。大火で亡くなられた方々の、供養の為でありましょう。海雲寺の堂宇も仏像も、今や此処になく、豪潮さんの八万四千塔のみが残っています。
「若し我れ滅後の四部の弟子、是の塔の前に於いて苦海を済はんが故に香華を供養し、至心に発願して神呪を誦念せば、文文句句に大光明を放ちて三途を照触し、苦具皆碎けて衆生の苦を脱し、仏種の牙萌え、随意に十方浄土に往生せん。」(「宝篋印陀羅尼経」)
仏法を末世まで伝える為に豪潮さんが発された、宝篋印塔八万四千造立の大願の有難さを念いました。
 一遍上人第七世・像阿上人開基の金台寺に参拝し、遠賀川を渡って対岸の山鹿へ。


此処から少し上流には、弥生時代の水田耕作伝播の指標とされる「遠賀川式土器」が出土した、立屋遺跡があります。かつて大陸から伝わってきた水田耕作技術・文化は、此処から東国へと広まっていったのでした。山鹿城址のある城山の麓には、白山神社の文化10年(1813)建立の鳥居があり、石段を上へ。


境内には石の小祀があるのみで、だいぶ寂れています。木の根元に、カニがいました。


城址から遠賀川右岸を下ってゆき、厳島神社に参拝して対岸に芦屋の町並を見渡しました。


河口の橋の上からは、響灘が見渡せました。


 遠賀川駅に戻り、電車に乗って次の目的地へ。お昼前に今宿駅で降車し、海岸に出ると、砂浜の向こうに糸島半島東部の今津が遠望できました。浜崎山の奥に、毘沙門山。今津橋の手前には、今山。


この辺りには、文永11年(1274)の元(モンゴル)と高麗の軍の襲来の後、再度の襲来に備えて鎌倉幕府が博多湾岸に築かせた長大な「元寇防塁」の跡が残っています。


弘安4年(1281)の第二次襲来の際、この防塁が元軍の上陸を阻止するのに役立ちました。海の向こうの某国が核兵器と弾道ミサイルの開発を進めている現在に当てはめるなら、迎撃ミサイルシステムの配備と同じようなものでしょう。今津の対岸には、能古島と志賀島。


海岸を今津へと歩いてゆきました。
 12時半頃、今山の熊野神社に参拝。神社からさらに急峻な尾根を登ってゆくと、クモの巣まみれになりました。山上には白髭大明神。


山を一回りして海辺に戻り、今津橋を渡って今津の四所神社に参拝。神社前の干潟は、「生きている化石」カブトガニの産卵地だそうです。干潟の向こうに、先程登った今山を拝みました。


 やがて、毘沙門山の麓に鎮座する誓願寺が見えてきました。


誓願寺は安元元年(1175)、怡土の豪族・仲原氏の娘の発願により阿弥陀如来を本尊として建立され、落慶法要を葉上僧正(栄西禅師)が勤めました。葉上僧正は当時、すでに仁安2年(1168)の一度目の入宋求法から帰国し、天台密教葉上流を開いた阿闍梨でしたが、文治3年(1187)の二度目の入宋までの十数年間、この誓願寺を拠点にして活動されたのでした。誓願寺には、中国の呉越国王・銭弘俶が阿育王(アショーカ王)の八万四千の舎利塔に因んで発願し、顕徳2年(955)から造立を始めた八万四千の宝篋印塔(金塗塔)の一つが伝わっており、葉上僧正(栄西禅師)の二度目の入宋の当初の目的が、インドに渡って舎利塔を順拝することであったことに、影響を与えているようです(岩間眞知子「栄西が将来したものについて―日中交流からみた僧栄西」)。葉上僧正はインドに渡ることはできませんでしたが、虚庵懐敞禅師より臨済宗の禅を嗣法して、日本に初めて禅の教えを伝えたのでした。本堂にて宝篋印陀羅尼と、念仏をお唱えしました。
 本堂の横、少し上手に、白山大権現堂があります。


建久6年(1195)に栄西禅師が博多に創建した「日本最初禅窟」聖福寺にも、白山妙理大権現が祀られています。


(2017年7月参拝時)
平戸・安満岳の「安満嶽縁起」には、葉上僧正が入宋の際、香合の中に白山妙理大菩薩を勧請して頸に懸けていたこと、虚庵和尚より禅宗を嗣法して帰朝の後、聖福寺に報恩の為に白山権現を勧請したことが記されています。誓願寺の白山大権現も、二度目の入宋から帰朝の後、葉上僧正(栄西禅師)が報恩の為に勧請したのでしょうか。それとも、二度目の入宋前、誓願寺創建の時にすでに勧請されていたのでしょうか。後者だとすれば、葉上僧正が香合の中に勧請して肌身離さず持っていたという白山権現とは、誓願寺から勧請されたことになるでしょう。白山権現ご宝前にて白山三所権現と泰澄大師・葉上僧正を拝みました。
 白山大権現堂から毘沙門山へ。山内は涼しく、林道終点から参道を登って13時半に奥の院(毘沙門堂)に参拝。


お堂の前からは、南に歩いてきた今宿方面が望めます。


お堂からさらに山上へ登ると、西側に長浜海岸が見下ろせました。


この海岸にも、元寇防塁が築かれていました。海の彼方に向かって宝篋印陀羅尼と毘沙門天ご真言を誦し、平和を祈りました。「宝篋印経記」には、肥前の日延という僧が天慶~天暦の頃(938~957)に中国に渡り、銭弘俶の宝篋印塔を持ち帰ったこと、また、銭弘俶の八万四千造塔の大願は、銭弘俶が戦争で多くの人々を殺さざるを得なかった罪悪感から重病となり、一人の僧から「塔を造り、宝篋印経を書して其の中に安んじ、香華を供養せんと願ぜよ」と勧められて病から癒え、阿育王の八万四千舎利塔造立の故事に倣い、宝篋印経を中に納めた八万四千の宝塔を鋳造したものであることが記されています。
「若し応に阿鼻地獄に堕すべきこと有らんに、若し此の塔に於いて或いは一たび礼拝し、或いは一たび右繞せば、地獄の門は塞がれ、菩提の路は開かれん。」(「宝篋印陀羅尼経」)


 北東に能古島と志賀島を望み、さらに北東にある白山を念いました。


「続古事談」に、泰澄法師が白山を開いた後、近江・山城境の岩間山に正法寺(岩間寺)を開き、後に唐に渡って彼の地で亡くなったと記されています。遣唐使船が唐に渡るには、難波から瀬戸内海を経て博多・平戸を通ることになります。また、泰澄大師の二弟子の一人・浄定行者は、元々、出羽の船頭でした。峰々を歩く泰澄大師のお姿だけではなく、舟に乗った泰澄大師一行のお姿を想い、北東に白山を拝み、西に向かって投地礼をしました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝