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筑前肥前白山順礼4/安満岳・生月島

 今宿駅から電車を乗り継ぎ、肥前・松浦郡の海と山、ヒガンバナに縁どられた田んぼや水路の長閑な風景を眺めつつ、日本最西端の駅・たびら平戸口駅で下車。バスで平戸島に渡りました。翌9月20日早朝、最教寺に参拝。雨が降ったり止んだりしていましたが、傘をさすほどではありません。二ヶ月前にも礼拝した豪潮律師の宝篋印塔の御前にて、宝篋印陀羅尼を誦し、礼拝・右繞しました。


高さ三m程の小振りの塔には、「宝篋印陀羅尼経」の

「無上道の為に力を盡くして塔を造り、神呪を安置せば、得る所の功徳、説けども盡くすべからず。若し人、福を求めて其の塔の所に至り、一華一香もて礼拝供養し右繞行道せば、是の功徳に由って、官位栄耀求めずして自(おの)ずから至り、寿命富饒祈らずして自ずから増し、怨家盗賊討たずして自ずから敗れん」

の経文が書かれてあります。また、この経文は享和元年(1801)冬、豪潮律師が施主の需めに応じて書写したことも書かれています。豪潮律師が八万四千造塔の発願をされて最初に起てた宝篋印塔は、享和2年(1802)、肥前基山の大興善寺の塔ですが、最教寺の塔も同じ頃にて起てられたのでしょう。
 最教寺から亀岡神社へと巡拝。


平戸松浦氏の祖霊や、平戸の守護神である七郎宮の祭神が祀られています。「七郎」とは十城別命(トオキワケノミコト)の臣下で、元々は中国の「紹宝七郎」が平戸に土着化したもののようです(邊見光眞「九州平戸地域における修験の歴史的文化的研究」)。「紹宝七郎」とは、明州(寧波)の阿育王山の近くにある紹宝山の土地神で、阿育王山の土地神・大権修利菩薩と混同されることもありました。大権修利はインドの阿育王(アショーカ王)の子で、阿育王が中国に贈った舎利塔(八万四千塔の一つ)を護る為に中国に来たとされています(H・デュルト「日本禅宗の護法神:大権修利菩薩について」)。阿育王山は栄西禅師も道元禅師も訪れた古刹で、「建撕記」には、道元禅師が帰国の前に「碧巌録」を書写した際、大権修利菩薩が助筆したと書かれてあり、「建撕記図会」では「大権修利菩薩」が「白山権現」になっています。
 亀岡神社から平戸城に登り、港を見下ろしました。


西へ下ると、元禄15年(1702)に造られた石橋・幸橋の向こうに勝尾岳。


南北朝時代から戦国時代にかけて、平戸松浦氏の本拠地・白狐山城(勝尾岳城)があった山です。山麓には、中国(明)の海賊・王直に松浦隆信が与えたという屋敷跡や、松浦隆信が永禄5年(1562)に建立を許可した教会「天門寺」(御宿りのサンタ・マリア教会)の跡があります。


 平戸桟橋からバスに乗り、安満岳(やすまんだけ)の麓の山野入口で降車。鳥居をくぐって古道を登ってゆきました。「安満嶽縁起」によれば、安満岳は養老2年(718)に泰澄大師が白山妙理大権現を感得して開かれた山です。沢を渡り、二つ目の鳥居をくぐってさらに上へと一心に行道。


大きな石段を登り、バス停から40分弱で三つ目の鳥居の前に出ました。


山頂の白山宮へ登ってゆく途中、右下に池が見えました。降りてみると、池には「安満岳龍王」が祀られていました。


「安満嶽縁起」に、泰澄大師が養老元年(717)、白山に三所権現を開かれた際、西方遥かに祥雲を望見し、翌年、筑紫に下って安満岳に登拝すると、白山天嶺と同じ瑞相が示現したとのことです。この池で、大師の前に九頭龍王と十一面観音菩薩が現われたのでしょう。
 安満岳西禅寺は、ルイス・フロイスの「日本史」によれば平戸の「あらゆるほかの僧侶の頭であり、大司教のようなものであった」(「日本史」柳谷武夫訳)そうです。永禄元年(1558)にガスパール・ヴィレラ神父が平戸島の春日・獅子・飯良、生月島、度島で布教した際、仏像を寄せ集めて「偶像」として焼いたことに対し、安満岳と志々伎山の僧たちが領主・松浦隆信に激しく抗議し、ヴィレラ神父は平戸を追放されています。
 池から山頂に登り、白山宮にて観音経と白山三所権現ご真言・ご宝号、泰澄大師ご宝号をお唱えしました。


岩壁から北西に生月島を望見。


眼下には春日の棚田。微雨の中、西海に面して松浦郡出身の白山笥笠神宮寺・西因上人の願文と念仏をお唱えし、白山有縁の一切衆生が生死の苦海を超えて涅槃の岸に到らんことを祈りました。


 山頂から来た道を下ってゆくと、池や三つ目の鳥居よりもやや下方に、たくさんの五輪塔や宝篋印塔が建ち並んでいる処がありました。


西禅寺の僧たちのお墓でありましょう。宝篋印陀羅尼を誦しました。「日本史」によれば、ヴィレラ神父が追放された後、松浦隆信の重臣でキリシタンであった籠手田安経(ドン・アントニオ)は、安満岳の住持が安経の地所に火をつけたことに対して隆信に強く訴え、この僧を平戸から追放させています。白山から日本西端まで広まった神仏習合の白山信仰と、西欧からインドを経て日本に伝わってきたキリスト教が、此処・平戸で出合い、衝突したのでありました。
 古道を駆け下り、30分程でバス停に降下。生月大橋手前の白石まで、バスに乗りました。白石は、天文20年(1551)に山口でフランシスコ・ザビエル神父から洗礼を受けた盲目の琵琶法師・ロレンソ修道士の故郷です。


生月大橋を歩いて渡り、生月島に上陸。橋のたもとの潮見神社の祭神は七郎皇子、即ち紹宝七郎です。潮見神社から橋の彼方に安満岳を遥拝。


平戸島最高峰の安満岳は、海から拝んでこそ、その神々しさが分かります。
 「島の館」には、捕鯨やかくれキリシタンについて展示されてあり、生月島のかくれキリシタンたちが、仏教も神道も民俗信仰も、かくれキリシタン信仰と並存させていたことを知りました。かくれキリシタンの民家の展示には荒神様の神棚があり、三宝荒神ご真言をお唱えしました。平戸には古くから、荒神様に向かって琵琶を弾きながら読経する天台系の「地神盲僧」がおり、その歴史は、少なくとも江戸時代初期まで遡るとのこと(高見寛孝「荒神信仰と地神盲僧」)。白石出身のロレンソ修道士も、改宗するまでは地神盲僧であったのでしょう。
 島の館から舘浦へと歩いてゆくと、巨大な観音さまのお姿が見えてきました。生月魚藍観音さまです。


先の大戦の戦没者と、海難殉職者の慰霊の為に造立された観音さまの御前で、般若心経と念仏をお唱えしました。観音さまは、安満岳と向き合っていました。


舘浦から車道を山手へと登ってゆくと、山の上に大きな十字架が見えてきました。


背後には、番岳。此処・黒瀬の辻には、永禄元年(1558)にヴィレラ神父が、永禄6年(1563)にはコスメ・デ・トルレス神父が十字架を建て、慶長14年(1609)に籠手田氏の旧臣・西玄可(ガスパル)が処刑された処でもあります。十字架に掌を合わせ、海岸へと下ってゆきました。


 正午すぎ、壱部浦より安満岳を遥拝。


この山に最初に白山権現を勧請した人は、海からこの山を拝んだはずです。遣唐使船は難波から博多・平戸・五島を経て明州(寧波)へと向かい、戻ってきていました。日本を離れる時、そして無事に日本に戻ってきた時に見たこの山の神々しさ・有難さは、如何ばかりであったことでしょう。弘法大師は延暦23年(804)に遣唐使船で渡唐の際、平戸の田の浦に風待ちの為滞在しており、船から安満岳も拝んだことでしょう。しかし、弘法大師の渡唐にも、同時期の伝教大師の渡唐にも、白山権現の名は出てきません。建久2年(1191)、二度目の入宋からの帰路、平戸・古江湾の葦ノ浦に着いた栄西禅師は、入宋の際に香合の中に白山権現を勧請して肌身離さず持ち歩き、帰国後、博多に建立した聖福寺に白山権現を勧請しています(「安満嶽縁起」)。おそらく、伝教大師・弘法大師の時代にはまだ安満岳、さらに平戸を含む肥前・松浦郡には白山信仰が根付いておらず、栄西禅師・道元禅師の頃には根付いていたのでしょう。松浦郡に白山信仰が根付いたのは、松浦郡出身で、保安2年(1121)に白山加賀馬場の本拠地の一つであった笥笠中宮・神宮寺に阿弥陀如来の像を祀り、昼夜不断の念仏三昧を行じられた西因上人の影響ではないでしょうか。ガスパール・ヴィレラ神父の1571年10月6日付の書簡に、「ヤスマンダキ」という寺には百人近くの僧侶と多くの収入があり、約四百年前に建てられた、と記されていること(フロイス「日本史」柳谷武夫訳、第五十章注)からも、そう推測されるのです。
 壱部浦から海岸をさらに北へ。目指すは白山神社です。海岸で寝そべっていた猫が起き上がり、「どこ行くとね」と言いたげにこちらを見ていました。


一心に歩いているうちに白山神社入口を通り過ぎてしまい、バス終点の加勢川入口で気付いて逆戻り。白山神社へと小路を登ってゆくと、一部氏屋敷跡に出ました。


弘治3年(1557)にバルタザール・ガーゴ神父より洗礼を受けた、籠手田安経(ドン・アントニオ)の弟・一部勘解由(ドン・ジョアン)の屋敷跡です。勘解由は兄・安経と共に、松浦隆信の名代として入信したようです(外山幹夫「肥前松浦一族」)。キリシタンの教えは、籠手田氏と一部氏の所領である平戸島西岸(白石・春日・獅子・飯良等)、生月島、度島に広まり、安満岳・志々伎山を中心とする寺社勢力と時には衝突し、松浦隆信は両者のバランスに配慮せざるを得なかったようです。
 一時間に一本のバスの通過時間がせまって来、地元の方に道を尋ねてようやく白山神社に辿り着いたのは、バス通過予定時刻の八分前。


神社は安満岳の方を向いて建っており、由緒書によれば、寛永3年(1625)、キリシタン鎮定の目的で安満岳から遷宮(勧請か)されたそうです。


白山三所権現を拝んで海岸のバス停へと駈け下り、ギリギリセーフでバスに乗ることができました。
 白山信仰・泰澄大師伝承の西端であり、また、栄西禅師が禅宗を、ザビエル神父がキリスト教をわが国に弘める起点となった平戸には、様々な文化の衝突と並存がありました。私は、ある神仏を拝むことは、他の神仏を捨てることではなく、一切の神仏を拝むことであると思っています。
「弥陀を唱うるは即ちこれ十方の仏を唱うると功徳等し。」(「摩訶止観」)
阿弥陀仏を拝むことは一切諸仏を拝むことであり、一切諸仏を拝むことは一仏を拝むことです。一仏を礼拝供養することは、一切如来の全身舎利を納めた宝篋印塔を礼拝供養することに等しく、宝篋印塔を礼拝供養することは、一仏の名号を称えることに異なりません。一切の神仏を並べ遮し、一切の神仏を並べ照らす。それが、私が白山から些かなりとも学ばせていただいた妙理です。白山笥笠神宮寺・西因上人の念仏三昧行の願文に、

「我れ普賢の行を修して無尽の世界に遍くし、諸衆生を引導して無上の菩提を證せん」(藤原敦光「白山上人縁記」)

それは、極楽一処に留まることなく、一切の諸仏諸尊をかち合うことなく礼拝供養して、あらゆる国々の生きとし生けるものを救わんとする、菩薩の大行願です。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝