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出雲巡礼/伊賦夜坂・須我神社

 1月31日朝7時半、小雨の中、出雲国意宇郡(おうぐん)の揖夜神社(いやじんじゃ)に参拝。


「出雲国風土記」には「伊布夜の社(いふやのやしろ)」と記されており、祭神は伊弉冊尊(イザナミノミコト)。「古事記」によれば、夫・伊弉諾尊(イザナギノミコト)と日本の国土や様々な神々を産んだ伊弉冊尊は、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ、火の神)を産んだ際の火傷が元で亡くなり、出雲国と伯伎国(伯耆国)の境にある比婆山に葬られました。嘆き悲しむ伊弉諾尊は、迦具土神の首を斬り、亡き妻に会おうと黄泉の国まで往きますが、「見ないで」という伊弉冊尊との約束を破り、蛆にたかられ変わりはてた妻の姿を盗み見てしまったのでした。恥辱を受けた伊弉冊尊は怒り、黄泉醜女(ヨモツシコメ)や八雷神たちに伊弉諾尊を追わせ、最後には自ら黄泉比良坂(よもつひらさか、黄泉の国の境)まで追っかけます。なんとか逃げおおせた伊弉諾尊は、黄泉比良坂を千引の石(ちびきのいは)で塞いで、伊弉冊尊と離別します。伊弉冊尊が
「あなたがそうなさるのなら、あなたの国の人々を一日に千人殺しましょう」
と言うと、伊弉諾尊は
「ならば、私は一日に千五百人の子を作ろう」
と言い渡したのでした。伊弉冊尊は黄泉津大神(ヨモツオオカミ)とも呼ばれるようになり、また、黄泉比良坂とは出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)のことである、と記されています。実際、その伝承地が揖夜神社の近くに存在するのでした。日本の母・伊弉冊尊を祀る大きな社にお参りし、境内北から東へ続く古道(?)を行道。



まさに、黄泉路です。車道に降り、線路を渡って南側へ上ってゆくと、8時前にため池に出ました。


この池の奥に、伊賦夜坂はあったのでした。
 黄泉の国といえば、私はいつも山上億良の歌を思い出します。

若ければ 道行き知らじ 賄(まひ)はせむ 黄泉(したべ)の使ひ 負ひて通らせ (「万葉集」)

かつて幼いわが子を失ったとき、天国でも極楽浄土でもなく、わが子のゆく黄泉路を思いやるこの歌こそ、最も強く心に響いたものでした。今や、あの子の母も先立ってしまいました・・・。黄泉の国の出入口というと洞窟が思い浮かびますが、此処には窟は見当たりません。妻と子を偲びつつ雨の伊賦夜坂を泥だらけになって徘徊しているうちに、「古事記」に書かれている情景がまざまざと浮かんできました。

「伊邪那美命答へ白(まを)ししく、「(中略)・・・我をな視たまひそ。」とまをしき。かく白してその殿の内に還り入りし間、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故、左の御角髪(みみづら)に刺せる湯津津間櫛の男柱(をばしら)一箇取り闕(か)きて、一つ火燭(とも)して入り見たまひし時、蛆たかれころろきて、頭には大雷(おほいかづち)居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷居り・・・(以下略)」

黄泉の国で、伊弉諾尊は死の現実を目の当たりにしたのでした。後に大国主神(大己貴命)が黄泉国で須佐之男命の試煉を受けた際にも、蛇の室・呉公(ムカデ)蜂の室に入れられたり、須佐之男命の頭についている呉公(ムカデ)を取らされています。伊賦夜坂の下は藪に囲まれたヘドロ地帯。


たしかに、黄泉の国の出入口にピッタリです。此処から先は、黄泉の使いに案内されないことには分かりません。

「最後(いやはて)にその妹(いも)伊邪那美命、身自(みづか)ら追ひ来たりき。ここに千引の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、各(おのおの)對(むか)ひ立ちて、事戸(ことど)を渡す・・・(以下略)」


千引の石から先へは、伊弉冊尊は追えませんでした。後に大国主神が須佐之男命の娘・須世理毘賣(スセリビメ)を背負い、須佐之男命の大刀(たち)と弓矢と天の詔琴(あめののりごと)を盗んで此処から逃げ出したときも、須佐之男命は黄泉比良坂まで追って立ち止まり、

「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟(ままあにおと)をば、坂の御尾(みを)に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥(はら)ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女(むすめ)須世理毘賣を嫡妻(むかひめ)として、宇迦の山の山本に、底つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴(やつこ)。」!

とはなむけしたのでした。そして、義父であり師でもある須佐之男命のこの言葉を、大国主神は後にすべて実現したのでした。
 黄泉の国の外から見た、千引の石。


坂は東側に下っており、伊弉諾尊も大国主神も、此処から西へ出て行ったのでした。西に坂を登ってゆくと賽の神を祀る峠があり、附谷に下ります。


附谷の地名は、伊弉諾尊が亡き妻の後を付けて黄泉の国まで赴いたことに因むそうです。黄泉比良坂を出た後、伊弉諾尊は筑紫(九州)で禊をし、左目を洗ったときに天照大御神、右目を洗ったときに月読命、鼻を洗ったときに須佐之男命が生まれたのでした。また、須佐之男命の娘・須世理毘賣と共に黄泉比良坂を出た大国主神は、斐伊川の上流まで兄弟神たちを追い払って出雲を統一し、出雲を拠点に葦原の中つ国(日本)の国作りを進めたのでした。
 黄泉比良坂は生と死の境・陰と陽の境・意識と無意識の境。白山妙理大権現(本地・十一面観音菩薩)の垂迹神は伊弉諾尊・伊弉冊尊ですが、神社によってはどちらか一方となっていたり、「日本書紀」の中で「一書(あるふみ)に曰はく」として、黄泉比良坂での両神の離婚調停に関わったとされている巫女、菊理媛神(ククリヒメノカミ)となっていることもあります。この三神は黄泉比良坂と深く結びついており、白山三所権現の一神・大己貴権現(大己貴命、即ち大国主神)も、同様です。伊賦夜坂下の泥藪で般若心経と白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えして黄泉津大神を供養し、一切の天神地祇の融和・一切の衆生の融和をお祈りしました。
 揖屋駅から電車とバスに乗り、11時すぎに出雲国大原郡の須我神社(すがじんじゃ)に参拝。


「古事記」によれば、父・伊弉諾尊から海原を治めるよう命じられた須佐之男命は、「妣(はは)の国根の堅州国(ねのかたすくに)」、即ち伊弉冊尊のおられる黄泉の国に行きたい、と、髭が胸に垂れるまで泣き続け、「お前はこの国に住むな!」と父から勘当されます。須佐之男命は姉の天照大御神が治める高天の原に別れの挨拶に行き、「誓(うけ)ひ」をして須佐之男命は宗像(むなかた)の三女神を生み、天照大御神は天忍穂耳(アメノオシホミミノミコト)を始めとする五神を生みましたが、須佐之男命はその後、高天の原で大暴れ。天照大御神は天石屋戸(あめのいはやと)に籠ってしまいます。八百万の神々が相談して天照大御神を石屋戸から引き出すことに成功すると、須佐之男命は財産を没収され、髭を切られて手足の爪も抜かれ、天界から追放されたのでした。出雲国の肥の河(斐伊川)の上流・鳥髪(仁多郡の鳥上山、現在の船通山)に降りた須佐之男命は、「高志(こし)の八俣大蛇(やまたのおろち)」の生けにえにされる直前だった櫛名田比賣(クシナダヒメ)を救って八俣大蛇を退治し、大蛇の尾の中から「草薙の大刀」を得て姉・天照大御神に献上。そして、妻・櫛名田比賣とすごす宮殿を建てるに相応しい場所を探し、此処・須賀の地に来たとき、

「我が御心すがすがし」

と感じて須賀宮を建てたのでした。立ち騰る雲を見て、須佐之男命が詠んだ歌。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を

日本最初の宮、最古の和歌、そして「出雲」の国名の起源。それだけでなく、此処は善悪・陰陽の二面性を持つ須佐之男命が、心の安らぎ・調和を得た地でもありました。須佐之男命は後に、かつての夢の通り「妣の国根の堅州国」即ち黄泉の国へ行って大神となりましたが、高天の原~葦原の中つ国~黄泉の国と遍歴され偉大な足跡を残された須佐之男命は、牛頭天王の名を借りなくても、世界に誇れる日本の無比の神さまといえましょう。
 雨の中、須我神社の裏山へ。


出雲の海沿いの平地は全く雪がありませんでしたが、山間部のこの辺りは処々、わずかに雪が見られます。神社の方の話では今年は雪が少ないとのこと。山上の御祖神社の祭神は、足名椎命(アシナヅチノミコト)と手名椎命(テナヅチノミコト)。


櫛名田比賣の両親です。須佐之男命は足名椎神を須賀宮の「首(おびと)」に任命し、「稲田宮主須賀之八耳神(イナダノミヤヌシスガノヤツミミノカミ)」とう名を与えたのでした。境内隣には神宮寺の普賢院。


雨で八雲山は見えませんが、清々しい風光。


須佐之男命と櫛名田比賣は、鳥上山のある南方から当地に来られたのでしょう。


般若心経をお唱えし、伊弉冊尊~須佐之男命~大己貴命(大国主神)と連なる、出雲ゆかりの大神たちを供養しました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝