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越後放浪/国上山~野積~弥彦山・前

 昔、良寛和尚に憧れてK大学仏教学部に入学した私は、良寛さんゆかりの出雲崎や国上山を何回か訪れ、佐渡島や山古志村にも足を延ばしたものでした。当時は、国上山が泰澄大師ゆかりの地でもあるとは知りませんでした。

我が宿は国上山もと恋しくば尋ねてござれたどりたどりに(良寛)

二十数年ぶりに、国上山を再訪してきました。
 10月12日未明、北陸自動車道・栄PAでバスを降車。雨の中、カッパを着て分水町方面へと歩を進めました。


尾崎、鬼木を経て一時間半ほど歩くと雨は止み、北西に国上山・雨乞山・弥彦山・多宝山のお姿。


信濃川を渡って熊森から西へ進んでゆくと、田んぼの中に小さな社があり、お参りしました。


 分水の町中に入り、地蔵堂の願王閣に参拝。


文治3年(1187)、西行法師が源頼朝より与えられた地蔵菩薩像を安置して創建、文政9年(1826)頃には、地蔵堂の大庄屋・富取武左衛門に請われて良寛和尚のお弟子・遍澄和尚が住しています。遍澄和尚は、国上山の五合庵や乙子神社草庵で良寛さんのお側に侍してきましたが、師の高齢を心配した遍澄和尚の仲介もあり、良寛さんは文政9年69歳の時、島崎の木村家邸内の庵に移られたのでした。
 願王閣の前には、良寛和尚が子供の頃、当地で儒者の大森子陽に学んでいた時に寄宿していたという家があります。


後年、かつて子陽先生に共に学んだ地蔵堂出身の友人・富取之則が亡くなったことを知り、良寛さんは

「此の揺落の候に当り、我を棄てて何処にか之ける。」

と、その死を悼んでいます。また、地蔵堂は良寛さんが托鉢の折り、里の子供たちとよく遊んだ処の一つです。

「地蔵堂ノ駅ヲ過レバ、兒輩必相追随シテ、良寛サマ一貫ト云フ。師驚キテ後ロヘソル。又二貫ト云ヘバ、又ソル。二貫三貫ト其数ヲ増シテ云ヘバ、師ヤヽソリ反リテ後ロヘ倒レントス。兒輩コレヲ見テ喜ビ笑。」(「良寛禅師奇話」)

分水町良寛資料館前の良寛さんのお像に、掌を合わせました。


 大河津分水へと田んぼの中を歩いてゆき、北北西に国上山、背後に弥彦山を遥拝。


河川敷に降り、8時半すぎに夕ぐれの岡に着きました。



夕暮の岡の松の木人ならば昔の事を問わましものを(良寛)

渡部橋の手前から国上山方面へしばらく登ると、乙子神社に着きました。



乙宮の森の下屋に我おれば鐸(ぬて)揺らぐもよ人来たるらし(良寛)

良寛さんは文化13年(1816)59歳の頃、もっと上の五合庵から此処・乙子神社脇の草庵に移られました。神社から国上寺旧東参道を登ってゆき、国上山頂の山かげと良寛さんのお像を拝みました。


吊り橋を渡り、五合庵へと向かいました。


 9時半すぎに五合庵参拝。


般若心経と念仏をお唱えしました。

あしひきの 国上の山の 冬ごもり 日に日に雪の 降るなえに 行き来の道の 跡も絶え 古里人の 音もなし うき世をここに 門さして 飛騨の匠が 打つ縄の ただ一筋の 岩清水 そを命にて あらたまの 今年の今日も 暮らしつるかも(良寛)

22歳の時に郷里を捨てて備中・玉島の円通寺で禅の修行をされ、その後、摂津・播磨・土佐・肥前唐津など諸国を行脚されていた良寛さんが、京都・桂川で入水した父の四十九日の法要に列なり、北陸道を経て郷里に戻ってきたのは、寛政8年(1796)、39歳の時でした。郷里に戻ってからも一所不住の生活を続けていた良寛さんが、五合庵に定住するようになるのは文政元年(1804)、47歳の頃からです。
 五合庵の脇に、萬元上人(ばんげんしょうにん)の墓碑があります。


貞享の頃(1684~88)、諸国を行脚していた萬元上人が国上寺(真言宗)に掛錫し、その後、本堂(阿弥陀堂)の再建等に尽力され、この草庵で一日米五合を支給されていた、ということは知っていましたが、萬元上人が天台宗の僧で、大和・吉野郷広橋の出身だったとは知りませんでした。天台僧のはしくれであった者として、諸国を遍歴し、宗派にこだわらずに堂宇の再建をされた萬元上人というお方に、俄に尊崇の念が萌してきました。念仏をお称えし、萬元上人と良寛和尚を偲びました。
 五合庵から、国上寺へと登ってゆきました。

「清夜二三更、策(つえ)を執って門を出でて行く。藤蘿、相連接し、石路、何ぞ羊腸たる。棲鳥、其の枝に鳴き、玄猿、我が傍らに嘯く。遙かに無量閣を望み、闊達として上方に到る。老松、皆千尋、冷泉、寒漿湧く。・・・」(良寛)


本堂(阿弥陀堂)は萬元上人が約三十年かけて享保3年(1718)に再建(上人は落慶の二ヶ月前に遷化)、六角堂には、源義経が奥州平泉へと落ち延びる途中、当寺に寄進した大黒天像が祀られています。また、大きな宝篋印塔もあります。塔身には、宝篋印陀羅尼経の
「若し応に阿鼻地獄に堕すべきこと有らんに、若し此の塔に於いて、或いは一たび礼拝し、或いは一たび右遶せば、地獄の門は塞がれ、菩提の路は開かれん。」
の経文。宝篋印陀羅尼を誦しました。
 本堂の向かって右前に、「雷井戸」があります。


「大日本国法華経験記」や「今昔物語集」に、国上山の宝塔を摧き破る雷神を、越後国の神融法師が法華経の功力で調伏し、泉を出させたことが記されています。「神融禅師」は、「泰澄和尚伝記」によれば白山を開山された泰澄大師の別号であり、「元亨釈書」の「越知山泰澄」の項にも、国上山の雷神調伏の話が載っています。
 本堂に上がり、行基菩薩作の阿弥陀さまに念仏をお称えしました。堂内には中興の祖・萬元上人のお像があり、さらに、開山大徳・泰澄大士と浄定行者・臥行者のお像がありました。思いがけず泰澄大師と二行者にお会いでき、白山妙理大権現のお導きを感謝したのでありました。国上寺は和銅2年(709)、金智大徳(こんちだいとく)の開山と伝わるそうですが、孝謙天皇の時に越知山の泰澄大師が雷神を調伏し、堂塔の造立が成就した為、開山大徳としてお祀りしているそうです。因みに、「続古事談」に、近江・山城境の岩間寺(正法寺)の開山は「越ノ小大徳トイフヲコナイ人」であり、「コノ大徳ヲバ泰澄法師トモイフ。又金鎮法師トモ。越後国古志郡ノ人也。」とあり、国上寺の「金智大徳」と岩間寺の「金鎮法師」は、もしかしたら同一人物、即ち泰澄大師なのではないでしょうか。本堂にて阿弥陀さまと泰澄大師・萬元上人に投地礼をし、国上山登山道を登ってゆきました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝