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御嵩放浪~浄蔵法師忌・前

 11月21日は、浄蔵法師のご命日です。浄蔵法師は康保元年(964)11月21日、京都東山の雲居寺で遷化されました。「大法師浄蔵伝」によれば、11月17日、法師は弟子たちに「悲しい哉、破戒の身を以て久しく信施を受く、罪の報いを念うごとに心神安らかならず。命終の期至り、遁るべき處なし。」と語り、21日酉の刻(17~19時)、正念に念仏しつつ、合掌西面して安らかに坐しながら遷化されたのでした。浄蔵法師を偲び、今年も御嵩の長岡観音堂に参拝してきました。
 21日早朝、紅葉の願興寺に参拝。


弘仁6年(815)、伝教大師(最澄上人)が比叡山から東山道を通って東国への布教の途次、当地に布施屋を建て、薬師如来のお像を刻んで小堂に安置されたそうです(「御嵩町史」)。その約一世紀後の延喜20年(920)、伝教大師五世の法孫・浄蔵法師(伝教大師~慈覚大師~長意僧正~玄昭律師)が伝教大師の足跡を辿って東山道を行脚し、願興寺に掛錫されました。ある夜、「東方長岡の地に桂の霊木あり、常に天人之に拠る」との夢告を受け、翌日、長岡の地に行ってみると本当に桂の大木があり、一刀三礼して十一面観音菩薩の尊像を造り、祀られたのでした。
 願興寺から東へと歩を進め、長岡の白山神社に参拝。


艮へと谷筋を登り、7時半に長岡観音堂に参拝。


浄蔵法師作の観音さまの御前で法要を修しました。開眼供養は延喜20年(920)と伝わるそうです。延喜18年(918)の末頃、浄蔵法師の父である参議式部大輔・三善清行公(善相公)が亡くなっており、法師は父の一周忌の後に東国へと旅立ったようです。熊野参詣中に父の死を知った法師は、急ぎ京へと戻り、死語五日目の棺中の父を加持して蘇生させたのでありました。善相公はわが子に礼拝をし、七日の後、西に向かって念仏を称えつつこの世を去ったそうです。
 善相公と同じ頃、比叡山の回峯行の祖・相応和尚も入滅されています(延喜18年(918)11月3日)。昌泰4年(901)、右大臣・菅原道真を讒言して太宰府に左遷させた左大臣・藤原時平は、延喜9年(909)に病に倒れました。延喜3年(903)に亡くなった道真公の祟りであろうと信じられ、時平と親交のあった内供奉十禅師・相応和尚も、菅公の霊を恐れて懇切に加持しなかったそうです。他の高僧の加持も全く効き目がなく、最後に白羽の矢を立てられたのが、三善清行の子で当時19歳(数え)の浄蔵法師です。法師が時平の加持をしていると、時平の両耳から菅公の霊が青龍となって出現し、善相公に向かって、浄蔵の加持を止めさせるよう告げました。法師が加持を止めて退出すると、時平は亡くなりました。時平の娘・褒子は宇多法皇の御息所(後宮)であり、翌日、浄蔵法師は法皇から、加持を途中で止めたことをこっぴどく叱られています。宇多法皇は浄蔵法師の得度の師なのでした。その後三年間、浄蔵法師は比叡山・横川の首楞厳院(横川中堂)に籠って苦修練行されたそうです(「大法師浄蔵伝」「扶桑略記」)。


(横川中堂、2017年11月14日参拝時)
 長岡観音堂から谷を遡上。


尾根上の作業道に出、8時に白山神社奥宮に参拝、白山権現即ち十一面観音さまに般若心経をお唱えしました。


奥宮から三角点を経て西へ。樹間に、御嵩富士の彼方に白い伊吹山が見えました。


藪を下って林道に着地、祖霊社から御嵩富士を遥拝し、愛宕神社に参拝。


9時、溜池から御嵩富士へと小藪を急登してゆきました。


10分ほどで到着した山頂には秋葉神社が祀られ、西に白銀の伊吹山を遥拝。


北へ続く尾根を縦走してゆきました。20分ほど進むと、尾根上の小ピークから、樹間に北北西の展望が得られました。藪越しに白山の雪が見えます。


向かって右に御前峰や剣ヶ峰、左に別山。


白山を遥拝しつつ、石上に正身端坐しました。冷たい北風、樹上でコゲラが幹を叩いています。浄蔵法師は49歳の天慶2年(939)夏、白山にて安居修行しておられます。その際、故老から「往昔苦行人有り(名称神融)、景雲(慶雲(704~8)か)年中に始めて当山を開き、自ら法花の功力を以て毒龍悪鬼を駈り、一大池に籠む(名を御厨と曰う)。之に依って頃年修行の者、彼の池畔に到ること能わず。若し人自ら到らば、天地震吼し四海は晦冥す」(「大法師浄蔵伝」)との伝承を聞いた法師は、真偽を確かめようと晴れた昼間に池に至り、竹筒にその水を酌み、護身結界して引き返そうとしました。すると、たちまち雷電霹靂し暴風雨となり、毒龍が出現したのでした。驚いた法師は神呪を誦しつつ、ほうほうの体で逃げ戻られたそうです。京に帰った法師は、後にその霊水を庶民の病を治すのに使ったのでした。


(白山御厨池、2017年11月3日登拝時)
尚、浄蔵法師が白山に夏安居した年の11月21日、常陸で平将門が反乱を起こしました。翌天慶3年(940)1月、浄蔵法師は比叡山首楞厳院(横川中堂)にて二十一日間、平将門調伏の修法を行じています。京の人々を不安に陥れた平将門は、2月14日に討死しました。
 浄蔵法師は、延喜20年(920)に美濃・長岡にて十一面観音さまのお像を彫って安置し、天暦2年(948)には、前年の洪水・土砂災害で流失した若狭の羽賀寺のご本尊・行基菩薩作の十一面観音さまのお像を泥中から掘り出して、再興しています。天慶2年(939)の白山安居の際は当然、白山頂の本地・十一面観音さまを礼拝したことでありましょう。また、法師は延喜9年(909)の藤原時平の加持の際、青龍となって現われた菅公の霊に加持を止めさせられ、白山夏安居の際は御厨池で毒龍に脅かされています。さらに、若狭・羽賀寺の水害の前には、青龍が谷から出て海に入った、と伝えられています(「本浄山羽賀寺縁起」)。羽賀寺の谷の青龍と、泥中から現われた十一面観音さま。白山御厨池の毒龍と、十一面観音さまの霊水。泰澄和尚が養老元年(717)に白山天嶺の緑碧池にて九頭竜王と十一面観音さまを感得した、という白山開山伝承を伝える「泰澄和尚伝記」は、浄蔵法師の話を聞いて神興和尚らが書いた、とされています。しかし、「泰澄和尚伝記」には浄蔵法師が白山安居の際に見聞きしたことが全く記されていません。神興和尚らが実際に浄蔵法師から話を聞いたのだとすれば、「泰澄和尚伝記」は、浄蔵法師が自らの体験を元に創作した物語であるか、神興和尚らが浄蔵法師の話や、浄蔵法師に纏わる様々な逸話(加持祈祷の霊験、飛鉢、護法神、青龍・毒龍、十一面観音さま等々)を元に創作した、美しい物語なのではないでしょうか。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝